お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

ヒゲをそりながら念仏を称える ( Say the Nembutsu while Shaving ) 

 摂津(せっつ)の国、郡家村(ぐんけむら)に主計(かずえ)という人がいました。いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。「世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか」と、何とも気がかりな様子でした。(『蓮如上人御一代記聞書』「六二」)            

 この文を読み、失礼とは思いながらも、笑いが込み上げてくると同時に、何だかほのぼのとした気持ちになりました。それにしましても、主計さんという人は、根っからの篤信者だったのですね。蓮如上人は、「行住坐臥に念仏を称えなさい」と仰っていますから、この言葉を地で行った人だと感心します。                        

 ただ、周りの人たちが気がかりな様子だったということですから、何かいい方法がなかったのだろうかと考えてみました。幸いにも、その回答が「同書(四)」にありました。そこには、<念声是一(ねんしょうぜいち)>という言葉が出ています。意味は、「口で称える念仏も、心の中で称える念仏も同じである、( The Nembutsu we say with our mouth and the Nembutsu we say in our mind are the same. )」ということです。       

 ところで、現代は電動、手動、両シェーバーがありますが、どちらも口をパクパク動かしながらの髭剃(ひげそ)りは危ないように思います。男性方には、せめてヒゲを剃っている間は、「南無阿弥陀仏」と心の中で称えることをお勧めします (笑)。          

 

 

こころを休める( Relaxing One’s Heart ) 

 環境を変えられなくても、できることはあります。「私はどこにいるときでも、手を合わせて静かにお念仏を称える時間を大切にしています。( Wherever I am, I value the time when putting my hands together and say the Nembutus quietly. )」。動き回りたがる手を止めて合掌し、繰り返し仏の名を呼ぶことで、せわしない時間の流れから少しだけ身をずらすことができるのです。(『人生は価値ある一瞬(ひととき)』より)           

 どのような環境であれ、お念仏を称えることは、こころが休まる一番の方法です。私も実感しています。                                   

 

 

よくよく案ずれば ( Considering Deeply ) 

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」と、親鸞聖人は『歎異抄』後序で言っておられます。                    

 阿弥陀仏は、もしすべての衆生が仏にならなかったなら、自分も仏にならないという本願を立てられました。結果として、既に仏になっておられるのですから、阿弥陀仏誓願は成就しているわけです。

 ところで、この聖人の言葉で注目しなければならないところは、「よくよく」と言っておられるところです。この部分からは、聖人は、「このような罪悪深重の親鸞をお助け下さったとは、どれほど阿弥陀仏にご苦労をおかけしたことか」と、慚愧に堪えない胸中を吐露されていることが感じ取れます。                           

 聖人は、私たち一人一人に対しても、「あなた一人のために、阿弥陀仏は並々ならぬご苦労をされたのですよ」と、言っておられるように思います。              

 実に、私一人のための五劫思惟の願だったのです。                 

 

 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人がためなりけり。( When I consider

deeply the Vow of Amida, which arose from five kalpas of profound thought, I realize

that it was entirely for the sake of myself alone. )

 

 

病苦すら修行の場 ( Even Pain of Sickness Is an Ascetic Place )

 山岡鉄舟は晩年、胃癌になり、最後はガンの複腔(ふっこう)転移で亡くなりました。しかし、病を得ても生き方は変わりませんでした。                   

 「お医者さん、胃癌、胃癌、ともうせども、いかん中にも よいとこもあり」などと戯書(ざれがき)して笑ったりしていたといいます。見舞客があれば、きちんと表座敷(おもてざしき)で応対し、玄関まで送り出すなど、病苦など毛ほども感じさせなかったようです。 

     (略)                                 

 最悪の状態でもそこに意味を見出し、生きていくことが、苦を苦としない生き方なのだと思います。                                    

 病気になると、「もう治らないのではないか」「このまま死ぬのではないか」と心配になります。その苦しみを「精進せよ」という諭しだと受け止められる人こそ、すぐれた人なのです。                                       

 病苦も死苦も修行の場だと思うのは難しいことです。しかし、実際にそのような境地があり、そのような人が多くいたことを知っておくと、勇気を得られるでしょう。      

   【 『イヤな思いがスーッと消えるブッダのひと言』 高田 明和  】     

 

 この文の「ポイント」として、筆者の言葉が次のように書かれています。「苦しみが避けられないということを知っている者には、苦しみも悩みもないとブッダは言うのです。恐怖にとらわれると、恐怖は増大する一方なのです」。                   

 病気になると、「もう治らないのではないか」と恐怖にとらわれることがありますが、恐怖は増大する一方だといわれます。ですから、怖がるのではなく、「最悪の状態でもそこに意味を見出し、生きていくことが、苦を苦としない生き方なのだ、( Even in the worst situation, you find out the meaning of life in your illness and that live on there. That is the way of life where you do not make pain pain. )」と教えられます。非常に難しいことですが、納得のいく言葉です。                           

 また、最後の「病気も死苦も修行の場だと   ………….  勇気を得られるでしょう」という件(くだり)は、とても励みになります。                    

 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう);幕末・明治の政治家。無刀流の創始者。江戸生  まれ の幕臣。剣道に達し、禅を修行、書をよくした。                   

 

 

慈悲の極み ( The Extremity of Compassion )

 己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり / 最澄                 

 自分自身のことなど忘れてしまって、ただ相手の利することを考えて行動する。最澄はそれこそが慈悲の極みなのだと説いています。                     

 言い換えると、困っている人に手を差し伸べようとするときは、自分のことは忘れてしまうほうがいいということです。                           

 私たちは何かにつけ、「やるからには見返りがあってしかるべき」と考えてしまいます。そして、よかれと思ってした行動について、期待した反応がないと「失礼なやつだ」と考えてしまいます。                                  

 慈悲とは他人の苦しみを自分のことのように感じて、手を差し伸べることです。自分が怪我をしているときに、見返りをもとめて手当てをしたりしませんね。痛いから消毒をする、絆創膏を巻く、ただそれだけです。                         

     【 『老いを生きる仏教の言葉100』  ひろ さちや 】         

 

 阿弥陀仏の慈悲について『浄土真宗聖典』には、このように書かれています。     

 [慈悲] 苦を除き楽を与えること。衆生をいつくしんで楽を与える(与楽)ことを慈、衆生を憐れみいたんで苦を抜く(抜苦)ことを悲という。一説では、抜苦を慈、与楽を悲とする。                                       

 阿弥陀仏は「私たち凡夫の苦しみを自分のことのように感じて手を差し伸べて」おられます。抜苦与楽(ばっくよらく)という究極の慈悲で、衆生をいつくしみ、憐れんでおられるのです。                                     

 私たちも、せめて、阿弥陀仏のお計らいを見習って、他人の苦しみに手を差し伸べたいものです。( We would like to be kind enough to help others’ pains by following Amida

Buddha’s example. )

 

 

今日限りの命 ( Life Only for Today ) 

 今日ばかりおもふこころを忘るなよ                        

      さなきはいとどのぞみおほきに                     

 今日を限りの命だと思う心を忘れてはならないぞ。そうでないと、この世のことにますます欲が多くなるから。( Don’t forget your life is only for today, if not so, you will have

more and more desires for things in this world. )

覚如上人の詠まれた歌です。  『蓮如上人御一代記聞書』(六八)           

 

 元旦は、人生の節目の日、つまり、人生の区切りの日と言ってもいいでしょう。新鮮な気持ちになり、新年の目標などを掲げれば、希望もわいてきます。            

 覚如上人は、(元旦というめでたい日でも)一日は一日。「今日限りの命」と思って出発しなさいよ、と諭されています。当然、今日限りの命と思えば、欲などわいてきません。心したい言葉です。                                  

 

 

押しつけの親切 ( Pressing Kindness ) 

 「満腹になっている牛の頭を押しつけて、無理やり食べさせようとしても、牛は嫌がるだけです。同じように、いくらよかれと思っても、相手のことを考えない押しつけの(善意)は、迷惑にうつります」『老いを生きる仏教の言葉100』より              

 この文を読んだとき、ある知人が「あなたの親切 私の迷惑」と、茶化すように言っていたことが忘れられません。きっとその人は誰かの親切心を押しつけがましく思った経験があったからでしょう。相手のことを考えない押しつけの親切は、迷惑以外にありません。 

 相手が本当に望んでいるものは何なのか、と相手の立場になって考えることが大事ではないでしょうか。( We should put ourselves in another’s place in order to know what

he really hopes for. )

 

 

もっともっと ( More and More ) 

 渇愛(かつあい)とは、私たちの心を「もっともっと」と駆り立てる衝動です。もっとお金がなければ生きていけない。もっと健康でなければ生きて行けない。そう考えるたび、人は自由な心を失ってしまいます。                          

 老後に対する考え方もそうです。どれだけ頑張っても、私たちの体は老い、衰えていきます。去っていく若さを、過去を、必死に食い止めようとすればするほど、それは強い渇愛に変わって私たちを苦しめます。                           

 もし身体が弱ってきたなら、「今まで、頑張ってくれてありがとう。これからは、ゆっくり生きることにするよ」と身体に語りかけてあげましょう。欲望のボリュームを下げると、心の騒音も静かになります。                            

   【 『 老いを生きる仏教の言葉100 』 ひろ さちや [監修]  】      

 

 渇愛とは、「[仏] 渇して水をほしがるように凡夫が五欲に愛着すること」(『広辞苑』)です。ここでは「「私たちの心を『もっともっと』と駆り立てること」と、端的に書かれています。                                      

 このように、人間の欲には切りがありません。「もっともっと」と求めて、苦しむ結果になってしまいます。そうならないために、                      

「欲望のボリュームを下げると、心の騒音も静かになります」よ, と諭されるのです。

( Turn down the volume of desire, and the noises of your mind come quiet. )

 知足(足ることを知る;現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと)が大切でしょう。                                     

 

 

不運も幸運も作るのは自分 (One Makes Misfortune and Fortune on One’s Own)

 

 因果の法則は一面で逃れられない恐ろしさを持っていますが、一面では、自分の人生を自分で変えられるという希望も与えてくれるのです。                  

    (略)                                  

 自分の毎日の生活を顧みて、常に正すことが大切です。繰り返しますが、因果の法則は逃れられない恐ろしさを持つ一方で、人生を自分で変えられるという希望も与えてくれるのです。「もう遅い」ということはありません。常につとめ励むことです。         

   【 『イヤな思いがスーッと消えるブッダのひと言』 高田 明和  】     

 

 因果の法則に、二つの面、一つは法則から逃れられない面、もう一つは自分で変えられる面、この両面があることに安心します。もし何か悪い結果が起きた時でも、それを良い方に向けるように努力することによって、良い運命へ変えられるからです。ただ、努力が必要ですが。                                      

 ここで、押さえておくべきポイントを、筆者は次のように書かれています。      

すべての運は自分が引き寄せたもので、運が尽きた時は神に祈っても変えることはできません。変えることができるのは自分だけです。( It’s only me who can change my own fate. )」。人生に希望が持てます。( We can have hopes in our life. )           

 

 

「おかげさま」の心で ( With Heart of Grace )

 私たち凡人はとかく、いいときには神さま、仏さまのおかげと感謝し、悪いときには「神も仏もあるものか」とグチをこぼします。神さま仏さまは、自分の都合に合わせて取り上げたり、捨てたりする存在ではなく、いいときも悪いときも見守り、支えてくださっている存在なのです。                                   

 大病を患ってつらい思いをした人が、「病気になったおかげで生きている喜びを味わえるようになった」「病気のおかげで人生観が変わり、新しい生き方が生まれた」などとおっしゃったりします。そういう望ましない事態に直面しても、自分が支えられ、生かされていることに気づけば、「おかげさま」という気持ちになれるのではないかと思います。    

      【 『人生は価値ある一瞬(ひととき) 大谷 光真  】        

 

 「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、神さまや仏さまは、私たちの(状態が)いい時も悪い時も関係なく見守っていて下さいます。また、私たちは健康を失って初めて健康のありがたみを感じますが、健康な時、病気の時に関係なく神仏は見守って下さいます。                                       

 このように、「どのような事態に直面しても、自分が支えられ、生かされていることに気づけば『おかげさま』という気持ちになれる」のです。              

 大切なのは、“気づく”ことですね。( It is extremely important for us to notice that

we are always supported and kept alive by Amida Buddha in any situation. )