すべては人生の薬となる ( All Is Medicine of Life )
医王の目には、途(みち)に触れて、皆薬なり / 空海
「優れた医師の目で見ると、道端に生えている草でさえ薬になる」
空海の言葉は、「歪んだ眼鏡で物事を眺めていませんか。目の前に起ったことの意味を、思い込みだけで判断していませんか」と私たちに問いかけてきます。
病気にかかることを人は嫌がりますが、「もっと身体に気をつけよう」という気づきを与えてくれます。老いもまた「これからは無理せず、ゆっくり生きよう」という薬になります。将来のことが頭をよぎれば、これもまた薬になります。そう考えてみると、すべては人生の薬なのですね。
ところで医王という言葉は、釈尊を指す言葉でもあります。それは、患者の病気に応じて医師が薬を与えるように、釈尊が相手に応じて法を説くからです。
目の前にある価値に気がつかないのは、私たちが世間の物差しで見ているからです。仏の物差しで見れば物事ははっきり見えてくるのです。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「優れた医師の目で見ると、道端に生えている草でさえ薬になる」と、草でも価値があると言われます。上記にありますように、病気にかかったら「もっと身体に気をつけよう」 という気づきを与えてくれるので、「病気にかかること」が価値あるもの、つまり、薬になるというのです。
このような観点からしますと、日々、見たり、聞いたり、考えたりすることも、あるいは色々の行為等も、すべてが人生の薬であるといわれます。
また、「医王という言葉は釈尊を指す言葉でもある」のですから、私たちは物事を世間の物差しで見るのではなく、「仏(=釈尊)の物差しで見ることだと啓示されています。(The Buddha reveals that we should see things with the Buddha’s ruler.)」。
人事を尽くした後で ( After You Do Your Best )
前々回の当ブログ(8月29日)で、「人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にお任せする」ことが大事であるという主旨の文を紹介させて頂きました。因みに「はからいの」の意味は、国語辞典によりますと、「考えて処置すること」です。そこで、このお任せするタイミングですが、それをいつにしたらいいのかが問われると思われます。考えて処置するということですので、どれくらい考えてのことなのか、あるいは考えてもわからない時などは、すぐにお任せしてしまってもいいのか等、悩ましいところです。
ところが、この疑問に対しては、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉にその回答がありました。つまり、「人間としてできる限りのことをして、後は天命に任せる」ということです。
浄土真宗の立場からすれば、「人事を尽くした後で、阿弥陀仏にお任せする」ということですね。
人事を尽くして天命を待つ: Do your best and leave the rest to Amida Buddha.
ただ「いのち」として生きる ( Living Only as “Life” )
身心一如 / 道元
私たちは心だけで生きているわけでないでもないし、肉体だけで生きているわけでもありません。「こころ」と「からだ」は、一つになった「いのち」として生きています。
身体に無理をかけていると、やがて心にも不都合が現れます。心に迷いを抱え続けると、身体にも影響が現れます。心と身体は分けて考えることができないものなのです。それがこの言葉の意味であり、仏教の基本的な考え方でもあります。
人は「歳を取っても若々しくないと」と、心に負担をかけることばかりやってしまいます。身体の面でも、若者に負けない体力を目指したりして逆に身体をこわしてしまう。これでは本末転倒です。
身体も人の心も変わっていく。それをまず心において、心身ともに大切にしていく。身体を大切にすることが、心を大切にすることになり、心を大切にすることが、身体を大切にすることにもつながっていくのです。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「身心一如」とは、心と身体を分けることはできないということです。ちょうど「名体不二」(阿弥陀仏の名号とその仏体とが一つであること)<『浄土真宗聖典(註釈版)』p.1542> という言葉がありますが、「一如」は「不二」とも言えるでしょう。
心の負担は身体の負担になり、身体の負担は心の負担になると言われます。心も身体も同じように大切にして、両方が一つになった「いのち」として生きていくよう教示されています。
心身一如:Body and mind can not be dualized.
無為に生きて無為に死ぬ (To Live Naturally and to Die Naturally)
親鸞が八六歳のときに書いた書簡にあるのがこの言葉です。
自然とは、おのずからそのまま、そして法爾もまた、おのずからそのままです。つまり、「こうでなければいけない」「こうしたい」という人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる。おまかせするというのが、この言葉の意味です。
先にもお話ししましたが、人間の本質とは老・病・死です。自然法爾とは、その本質を受け入れて自然のままに過ごすということです。
長生きするばかりが幸せなのではありません。幸せとは長生きの間にあるのではなくて、今ある生活のなかにあります。
自然のままに過ごしていった結果が長寿ならば、確かにありがたい話です。しかし、薬や機械のおかげで生きながらえているという長寿については、意見の分かれるところでしょう。あるがままに死と向き合うことが、結局は生を輝かせるのかもしれません、
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 成美文庫 】
ここで、「自然」も「法爾」も「おのずからそのまま」という、同じ意味であり、「人間としてのはからいをやめてしまって、すべてを阿弥陀仏にゆだねる、おまかせするというのが、この言葉の意味です」と説明されています。また、『広辞苑』には「自然法爾」の意味を「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せ切ること。親鸞の晩年の境地」とあります。
更に自然(=法爾)の意味を、「親鸞聖人は、人間のはからいを超えた如来のはからいによる救いをあらわす語とした」<『浄土真宗聖典(註釈版)』p.1488より> とも書かれています。
まず、阿弥陀仏の本願に救われて、晩年の親鸞聖人の境地と同じく、すべてを阿弥陀仏にお任せしましょう。( First of all, we are enlightened by the Primal Vow of Amida
Buddha and let’s leave everything to the Buddha just like Saint Shinran’s state in his later years. )
わからないことは考えない ( Not to Think What We Don’t Know )
莫妄想(まくもうぞう) / 無業
人は明日のことを思って不安に心を乱したり、過去のことを思ってクヨクヨします。
しかしどれだけ悩んでも、答えが出てくるわけでもありません、いくら考えてもわからないことを考えること、それが妄想です。そうした妄想を考えるなというのが莫妄想―妄想するなかれという言葉です。
無業(むごう)禅師は、「莫妄想」と、誰が何を尋ねても答えていたといいます。
実際私たち目の前で起こることや、心のなかに湧き上がってくることに対して、「これは考える必要のあることか」「考えても答えの出ないものか」判断せずに考えてしまうことがあります。
いま自分にできることは何か。
考えるべきはまずそこです。老後が不安というならば、今自分にできることをしっかり考える。考えてもどうにもならないことはあきらめる。そう考えるだけでも、心は整理されるのではないでしょうか。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』』 ひろ さちや[監修] 】
辞書には、「妄想」の意味をこのように書かれています。「あり得ないことをあれこれ想像すること」。上記には「いくら考えてもわからないことを考えること」と、あります。このような妄想によって、どれだけ考えても答えは出ないのですから無意味なこと、と言わねばなりません。いま自分にできることは何か。
結論は、「考えてもわからないことは考えない」ことですね。( The conclusion is that
we shouldn’t think what we don’t know even if we think it deeply. )
言葉は鋭い刃である ( The words are sharp blades )
自分を苦しめず、また他人を害しないような言葉のみを語れ / ウダーナヴァルガ
人間関係に上手な言葉は必要ありません。大切なのは「うまく話す」ことではなく「やさしく話す」ということです。
「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである」
と仏典にもあるように、もともと言葉は刃のようなもの。扱い方を間違えれば、思いもかけず多くの人を傷つけてしまいます。そして返す刃が自分自身も切り刻んでしまうのです。
それを避けるためにも大切なのが「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ」という心がけです。
相手に合わせてばかりでは、付き合っていくのがつらくなります。本当の自分で付き合っているわけでもないので、いつ破綻するやもしれません。かといって自分勝手に振る舞うだけでは、相手を傷つけるばかりです。相手も自分も傷つけない。そんな心がけが大切なのです。 【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「人が生まれたときには、……………………その斧によって自分自身を斬るのである」と仏典に書かれていることに驚きました。如何に「言葉は鋭い刃である」かが実感できます。人に悪口を語るという悪因を残せば、仏教で教えられる悪因悪果によって、必ず相手から悪口を返されたり、憎まれたりというような悪果が生じます。つまり、自分の発した悪口で、その斧によって自分自身を斬ることになるというのです。
このような悪果を招かないために、「『やさしく話す』、『相手も自分も傷つけない言葉のみを語る』ことに留意したいと思います。( I want to take care “ to tell tenderly “ and “to only say the words which hurt not a partner nor myself.”)」
日々を気負いなく生きる ( Living Everyday without Bracing Oneself Up )
平常心是れ道 / 無門関
「道とはいかなるものですか」
弟子の趙州(ちょうしゅう)に聞かれた南泉禅師が答えたのがこの言葉です。平常心こそが道であるということですね。ただこれは、平常心を保つように努力せよということではありません。もし求めたりすれば、たちまち道は遠のいてしまう。そう南泉禅師は言っています。
あるがままに生きて、当たり前をきっちりする。日常をしっかりと、しかし気負うことなく生きる。そこに求めずして平常心はあるし、道ともなるということです。これは人間関係においても同じことがいえますね。
相手に好かれよう、気に入られようと思っていろいろやっても、逆にこびているように見られるだけです。
こびることなく、突っかかるのでもなく、ただ同じ娑婆世界に住む人間として、相手と付き合う。やるべきことはやって、やるべきでないことはやらない。そんなふだんの心構えが人間関係を変えていきます。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「気負う」の意味は辞書に、「自分こそはと意気込む」とあります。この意気込む気持ちを捨てて、平常心(=いつもと変わることのない平穏な心)で生きることの大切さが語られています。
「日々を気負いなく生きたいものですね。 (We’d like to live everyday without bracing ourselves up, don’t we.? )」
「何かのために」の「ために」を捨てよ ( Throw Away “for” of “for Something” )
無功徳 / 景徳伝燈録
将来のために貯金をする。若々しくいるために運動する。人は何かの「ために」努力をしようとします。それは、「善いことにつとめれば、善いことが返って来る」と考えているからです。
梁(りょう)の皇帝であった武帝も、そう考え仏教を厚く守護してきました。さぞや功徳もあることだろうと、禅宗の祖・達磨(だるま)大師に尋ねたところ返ってきたのがこの言葉 ― 無功徳(功徳なんてない)です。
仏教は努力することを大切にしていますが、それは幸せになるためにする努力ではありません。努力そのものを楽しむ、そうした努力です。
武帝は功徳なんかにこだわらず、ただ仏といる時間を楽しめばよかったのです。だから、そんな善行には功徳なんかないよ。達磨大師は、そう言っているのでしょう。
何かの「ために」と頑張るあまり、いまを楽しむことを忘れていませんか。人は「いまこの瞬間」にこそ、生きているんですよ。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
仏教でいう努力とは、「努力そのものを楽しむ、そうした努力」であるといわれます。そういえば、仏さま方は、還相回向という阿弥陀さまのお働きにより、この世で衆生済度に活躍しておられます。その時の仏さまのお気持ちは、遊びの境地で、つまり済度を「楽しんで」行っておられるといわれます。
「仏さま方の、楽しむという境地を見習いたいものです。( We would like to follow
Buddhas’ state. of enjoyment.)」。
すべて百点と考える ( Thinking All Is a Hundred Points. )
般若 / 般若心経
仏教の智慧は世間の智慧とは違っています。世間の智慧は善悪や優劣を分別して価値判断をしようとしますが、仏教は逆に「分別するな」と教えています。無分別こそが仏教の智慧 ― 般若なのです。
たとえば「美しいものを愛しなさい」と教えると、醜いものを人は憎むようになります。しかし美しいものは醜いものがあってこそ、その輝きがわかります。つまり美しいものにも醜いものにも、すべてに存在価値があるということです。それが「諸法実相」であり、仏教の智慧です。
美しいものがずっと美しいままでいることは、もとよりできません。すべて変わり続けるのが、この世のならいであるからです。
去りゆくものにしがみついてはいけません。やってくるものを避けようとしてはいけません。老いも病気も死も、避けようとして避けられるものではないのです。思い通りにいかないことは思い通りにしない。それを心に思うだけでも、苦は苦でなくなっていきます。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
最終部分「老いも病気も死も ……………………. 苦は苦でなくなっていきます」からは、仏陀の言われたという「苦しみが避けられないということを知っている者には、苦しみも悩みもない。( Those who know that they cannot avoid pain have no pain and anguish.)」という言葉を思い出しています。
※ 般若 [仏] 『広辞苑』
㋐心理を認識し、悟りを開くはたらき。最高の智慧。仏智。三学。六波羅密の一。
㋑大般若経の略。
楽しみを貪るな ( Don’t Devour Enjoyments )
まどへる人の楽と思ふは、苦をもって、楽とおもへるなり / 鉄眼道光
迷いのなかにある人が「楽」と思ふことは、実は楽はない。本来は苦しみであるものを、楽しみと受け取っているのだ。江戸時代に生きた禅僧・鉄眼道光(てつげんどうこう)のこの言葉には、そんな意味があります。
求めているものが手に入ったとき、人は幸せな気持ちになります。しかし、それを貪るようになってしまうと、楽しみはとたんに苦しみに変わってしまいます。「手に入れるとさぞかし楽しいだろう」と考える心が、人を押しのけ、相手を否定する心までつくってしまい、自分ばかりか周りの人まで悩ませてしまうのです。
「苦のやすまりたるを楽とおもへり」
と鉄眼も言うように、私たちが「楽」と考えていることは、実はいっとき苦がおさまった状態にすぎません。楽を求めても、求める先には苦しかないということですね。楽しみを求めるのではなく、いまを楽しみにする。その考え方が、老いを生きるためのヒントになります。 【 『老いを生きる仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
「楽しみを求めるのではなく、いまを楽しみにする。 ( We should not ask for enjoyments but we should enjoy now. )」、実にすばらしい考え方だと思います。