お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

尊い人間の命 ( Precious Human Life )

 人間に生まれることが、如何に難しいかということを示す「盲亀の浮木」の喩えがあります。

 「百年に一度、海面に浮かび上がる盲亀がたまたま海上を漂う流木に出会い、その木の穴に入り込んだ(首を突っ込んだ)という『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』の寓話に基づく」『明鏡国語辞典

 また、< 2018・6・21 > の当ブログ「人間に生まれる確率」の中で、遺伝子の研究をしておられる村上和雄氏(筑波大学名誉教授)の言葉が忘れられません。「超天文学的確率で一人の人間が生まれる」というものです。その確率は限りなくゼロに近いと考えられます。

 想像を絶するほどの生まれ難い人間の命ですから、とても尊い命だと言えます。更に、この自身の命は、阿弥陀仏より仏性を与えられた命ですから、先達方も言われるように、阿弥陀仏の命の一部を生きていることになります。人間の命の尊さが如実に知らされます。

 人の命ほど尊いものはない。( Nothing is more precious than human life. )

仏性 ( Buddha’s Real Nature )

「仏性」の意味は次のようです。

 「如来性・覚性(かくしょう)等という意で、仏の本性、仏のさとりそのものの性質をいう。また仏になる可能性をいう。仏の性質を果仏性といい、仏になる可能性を因仏性という。大乗仏教では一般に、一切衆生はすべてこの性を有しているとする。浄土真宗では、往生成仏は阿弥陀仏の本願力によるとするから、如来衆生に与えた仏性とする」『注釈版 浄土真宗聖典』(PP. 1531~1532)

 上記から明らかなように、仏性とは「仏になる可能性」つまり、「生まれながらにして仏となる種がある」ということです。

 本年は世の中、コロナ禍蔓延の危機的状況下での年始を迎えました。このような中、阿弥陀如来が私たち凡夫に仏性を与えて下さっているとは、この上ない喜びであり、その底力を垣間見る思いです。

 誰もが、阿弥陀如来の本願に救われますよう、心から願います。(I sincerely wish everyone is saved by Amida Buddha’s Primal Vow. )

「いい加減」が、いい人生をつくる ( ‘Being Moderate in Everything’ Gives Birth to Good Life )

      中道  /  仏教語

 料理は音楽にも似ています。甘さが勝っても、塩辛さが勝っても、おいしくありません。「いい塩梅」が大切なのですね。

 頑張りすぎることは、この塩梅を無視して料理に塩を入れるようなもの。それではたのしむこともできませんし、身体もこわしてしまいます。

 世間を見渡せば「頑張れ、頑張れ」の大合唱ですが、振り回される必要はありません。自分がいまできることをやる。それがいちばん「いい加減」なのです。

 もともと人生とは、思い通りにいかないもの。

 老いることからも、病気になることからも、死ぬことからも逃げ出すことはできません。

苦しみを抱えて生きるのが、私たちの本質。つまり、人生には塩で下味がついているのです。いま以上に頑張る必要はありません。

 世間を気にせず、明日を気にせず、いい加減に生きましょう。頑張ることより、楽しむ時間を使うことが、喜びを生んでくれるのです。

  【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 成美堂出版 】

 

 仏教で言う「いい加減」の意味は、「良い程あい。適当。ほどほど」です。『明鏡国語辞典』また、仏教語の「中道」という意味は、「[仏] 二つの極端(二辺)すなわち有・無・断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること」です。『広辞苑

※ いい加減に生きたいものです ( I’d like to live a moderate life in everything )

求めないことが布施になる ( It Is an Offering to Others Not to Demand )

 布施というは不貪(ふとん)なり。不貪とは、むさぼらざるなり / 道元

 仏教では「布施」を実践すべき徳目として薦めています。他人に施しをするというのが布施なのですが、金品を施すだけが布施ではありません。「和顔愛語」もまた布施の一つです。

 自分が手に入れないことも布施である。そう説いたのは道元です。「布施というは不貪なり」というのはまさにそういうことで、必要以上に求めないことが、相手に施すことになるということです。

 たとえば電車で席を譲るのは布施ですが、正直タイミングが難しいものです。道元の布施とは「自分が座らない布施」です。自分が座らなければ、相手に座ってもらうことができる。それが布施になるということです。

 何かを求めたり期待するのではなく、相手が笑顔になることを考える。相手が感謝してくれなくても、布施の心で付き合う。

 人間関係もそのように心がければ、相手も自分も気持ちよくなってくるのではないでしょうか。        【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 】

 

 仏さま方は布施の気持ちを大切にされました。もし、施す財物がないとしても、上記に書かれていますように、電車で席を譲るのも「自分が座らない布施」だといわれます。因みに仏教では「無財の七施(財物がなくてもできる七つの布施)が説かれています。その中で、席を譲るのは「牀座施(しょうざせ)」という布施です。

 私たちは、人に物をあげた時、その見返りを求めることがよくありますが、仏さまの説かれる布施とは、見返りを求めない布施であることは言うまでもありません。そうすることで、お互いに気持ちよく歩んでいけるのではないでしょうか。

 布施というは不貪なり。不貪とは、むさぼらざるなり( An offering is freedom from

avarice. Not to be greedy is not to devour. )

苦しむときは、しっかり苦しむ ( When We Suffer, We Should Suffer Thoroughly)

      忍辱(にんにく)  /  法華経

 自分に降りかかってくる苦しみに対して耐え忍んで生きなさい。そして、いまやるべきことをやりなさい。それがこの言葉の意味です。

 仏教ではこの世のことを娑婆(サンスクリット語で「忍ぶ」の意)と呼びます。つまり、思い通りにいかないことに対しては耐え忍ぶのが、この世のあり方なのです。

 ひとりの老後を過ごすことが、たとえ自分の意に添わぬことであったとしても、自分の人生を否定しない。苦しみは苦しみとして引き受けて、そのうえで自分がやるべきことをやる。

 すると、思い通りにいかないことは多いけれど、実はこんなことができるのではないかという発見が生まれてきます。苦が苦でなくなっていくのですね。苦しむときにはしっかりと苦しむことが、結果的に苦を楽に変えていくわけです。

 ひとりの老後もまたよしという瞬間は、そこに生まれてくるのです。

         『  老いを生きる 仏教の言葉100 』

 

 娑婆と呼ばれるこの世は、思い通りにいかないことに対しては耐え忍ぶのが、そのあり方であると言われます。

 つまり、「苦しむときはしっかり苦しむことが、結果的に苦を楽に変えていくことになるからだ」と教えられます。今かかえている苦しみから逃げずに、受け入れていくことが求められるのですね。前々回書きましたが、「自分の気持ちと仲良くする」ことだとも言えるでしょう。

 忍辱 (endurance);[仏] 六波羅蜜(ろくはらみつ)の一つ。もろもろの侮辱・迫害を忍受して恨まないこと。『広辞苑

「今、この時」にやることをやる (“ Now! At This Time," Do What You Should Do )

   飢え来れば飯を喫し、困(つか)れ来れば即ち眠る  /  大珠慧海

 「お腹が空けばご飯を食べて、眠くなったら眠る」

 それがこの言葉の意味です。当たり前ですね。

 唐代の大珠慧海(だいじゅえかい)が「道の修行にあたっては何か工夫を用いますか」という質問に「ある」と答えて、その内容について語った言葉ですが、私たちが常日頃行っている「当たり前」とは違います。

 私たちはご飯を食べても、気もそぞろに考え事をしていたり、床についても「明日が心配だ」と眠ることができずに悶々としていることがあります。つまり、本当の意味で食べたり眠ったりしていないのですね。

 一瞬一瞬のなかで、いまやるべきことに集中する。食事をするときはただ食事をする。眠るときはただ眠る。それができれば修行も進むだろうし、生活そのものが禅となるのだということです。

 悩むときはしっかりと悩み、笑うときはしっかり笑う。老いてくれば、しっかりと人生を生きる。それを心において毎日を歩いていきたいものです。

         【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 】

 

 ここで書かれていますように、自身のことに引き当てても、ご飯を食べる時や眠る時など、気もそぞろなことがよくあります。一瞬一瞬に集中していない証拠です。

 確かに一寸先は闇であり、世の中は「今」よりほかはないのですから、今の一瞬に集中することの大切さがわかります。

「『今、この時』にやることをやる」。「努めて意識して、実践したい言葉です ( This is the phrase which I try to be conscious of and carry it out. )」。

自分の気持ちと仲良くしよう ( Let’s Be Friendly with Our 0wn Feelings )

  一物不将来(いちもつふしょうらい) 従容録(しょうようろく)

 趙州和尚は「すべてを捨て何一つ持たない(一物不将来)身となれば、あとは何を修行すればいいのですか」と、厳陽(ごんよう)尊者に尋ねられて「捨ててしまえ」と答えています。

 「何を捨てたらいいんでしょう」という気持ちを捨てていないじゃないか。趙州和尚は、そう言いたかったのでしょう。

 同じように「何事にもこだわらない」、と考えるとき、私たちは「こだわらないこと」にこだわってしまいます。

 こだわらずに生きるのと、鈍感に生きることは違います。

 悔しい気持ちがあるのに「こだわっちゃいけない」と、自分の気持ちを否定することでもありません。

 悲しくて泣きたいときには思いっきり泣く。笑いたいときには思いっきり笑う、悩んでいるときは、しっかり悩む。気持ちを否定するのではなく、そんな自分も肯定する。それが、こだわらないということです。

  【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  成美堂出版  】

 

 人間の感情である喜び、怒り、悲しみ、楽しみという喜怒哀楽の気持ちを否定するのではなく、そのままの自分の気持ちを受け入れて、仲良くするよう心掛けたいものです。

 「心が整理されるのではないかと、期待を込めて ( I do expect that my heart can be put in order. )」。

心に善悪はない ( Mind Does Not Have Good and Evil )

    人の心もとより善悪なし 正法眼蔵随聞記(道元

 多くの場合、人は物事を善悪で判断してしまいます。しかし、この判断は何に基づくのでしょうか。

 よくよく考えてみると、私たちが「よい」「悪い」と考えているのは、そのときの状況や自分の立場として、そう判断していることが多いのではないでしょうか。心のあり方も同じです。

 あるがままの心に善悪はありません。もとより定まった形もなく、ただ巡りあう縁によって変わっていきます。

 悪いことが続くと、自分に対する自信がなくなって「自分なんてもうどうにもならない」と、つい考えてしまいがちですが、自分に見切りをつけてはいけません。それは自分を取り巻く縁がそうさせているのです。

 「ただ善縁に随うべきです」

 道元が言うように、善い縁に從っていくことです怒りに生きるのではなく、感謝のなかに生きてみませんか。

        【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 】

 

 先日の当ブログ、「巡り合わせが気持ちをつくる」<2020・11・20>で、「因果」の意味について書きました。『註釈版 浄土真宗聖典』(p.1447より)。

 この「因果」という言葉は、「因果の法則」や「因果律」という仏教用語として表されています。大事なことは、因と果に必ず縁が加わることですので、因縁果の法則と言ってもいいのではないかと思います。

 ここで、「心に善悪はない」ということですが、大切なことは悪縁ではなく、「良い縁に從って行くこと」だと言われます。

思い通りにしようとしない ( Don’t Want to Have One’s Own Way )

  人の世にあるとき、求むる所、意の如くならず  /  源信

 どれだけ頑張っても、成功するとは限りません。それどころか、他人の上前をはねるだけの人間が、大きな顔をしていることもあります。どんなに求めても、独りになることもあります。それがこの世の現実です。源信は往生要集のなかで「人間はこの世にあっては、何を求めようとも思い通りにはいかない」と言います。

 この世で暮らす私たちは、満員電車に乗っているようなものです。

 窮屈だからといって電車のなかで身体を伸ばそうとすると、ますます苦しくなります。しかし、「満員だから仕方ない」と、それぞれが身体を伸ばすのをやめれば、少しは乗り心地もよくなります。

 老後についても同じです。「どうして昔と同じことができないんだ」と自分を責めてしまうと、つらくなるばかりです。自分に対しても、許しの心で接してみる、うまくいかなくて当たり前なんだと考えてみる。そう考えているうちに、心に浄土が現れるのです。

         【 『 老いを生きる 仏教の言葉100  』 】

 

 源信は「人間はこの世にあっては、何を求めようとも思い通りにはいかない」と言っていますが、源信に限らず、このように思っている人がほとんどではないでしょうか。

 そうであるなら、「思い通りにしようとしないこと」、つまり「うまくいかないことが当たり前だと考えてみること」が、心を軽くして、穏やかになれる方法だと教えられます。「うまくいかないことが当たり前だと考える」という発想がいいですね。

 人の世にあるとき、求むる所、意の如くならず ( In this world, people can not want

to have their own ways.)

もともとみんな、ひとりなんだ ( Everyone Is Originally Alone )

   生ぜしもひとりなり。死するも独りなり  /  一遍

 生れてきたのもひとりであれば、死んでいくのもひとり。もとより人はひとりなのだ。それがこの言葉の示すところです。

 どうもひとりの老後というと、どこか後ろ向きな印象がつきまといがちです。しかし、身近な身体で自由を謳歌する時間もまた、ひとりの老後の側面であることを忘れてはなりません。

 もしかすると、周りと自分を比べては「自分はひとりだ」と思うこともあるかもしれません。

 しかし、いずれは誰も皆ひとりになります。人よりも早いか遅いか違いだけなのです。その視点に立つと、いままで考えていたものとは違う「ひとりの老後」が浮かび上がってきます。

 孤独と向き合って、孤独を生きる。不安と向き合って生きる。喜びと向き合って、喜びを生きる。それが私たちの人生です。

        【 『老いを生きる 仏教の言葉100』  】

 

 上記からは、「独生 独死 独去 独来(どくしょう どくし どっこ どくらい)」という言葉が思い浮かびます。『仏説無量寿経』の中で説かれている言葉で、意味は次のようです。「人、世間愛欲のなかにありて独(ひと)り生まれ独(ひと)り死し、独り去(さ)り独り来(きた)る。行(ぎょう)に当(あた)りて苦楽の地(じ)に至り趣(おもむ)く。身(み)みずからこれを当(う)くるに、代(かわ)るものあることなし」

 なお、上文の「行に当りて苦楽の地に至り・・・以下の部分の意味は「自己のなす善悪の行業に従って、その苦楽の果報を得る」ということです。

 人生、楽しみも苦しみも半々くらいである、とよく聞きますが、果たしてそうでしょうか。お釈迦さまの「独生 独死 独去 独来」の説法からは、詰まる所、人生は底なしの孤独、寂しい所であることがひしひしと感じられます。

 この現実を回避する道、阿弥陀仏の本願があって良かった~ と、心の底から思います。

 生ぜしもひとりなり 死するも独りなり (Everyone is also born lonely and also dies

lonely.)