耐えて仏法を聞きなさい ( Endure the Pain and Hear Buddhism )
どんな現実の難関にあっても 耐えていける人間を生み出す。
それが仏法である。 (安田理深)
人生には調子の良いときもあれば、思うことがかなわないときもあるでしょう。わたしは十六年前、長女の自死という境遇に出遭いました。何故、どうして娘は自らのいのちを絶ったのか。今考えてもわかりません。夫と四歳の娘を残して自らのいのちを絶つということは、死ぬことより辛い何かがあったのでしょうか。ただ娘は躁鬱の病に苦しんでいました。仏さまの教えを聞いて、いのちの尊さはよく知っていたはずです。仏さまの教えでは、自死を止めることはできないのでしょうか。
仏教では縁起の道理を説きます。すべては因縁果によって成り立っています。その縁に順縁と逆縁が説かれます。順縁のときはあまり感じませんが、逆縁となると深く身に感じます。わたしはしばらくは、悲しみのあまり仕事も手につかない日々が続きました。親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよをせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)と言われます。われわれの意識分別に先立って、人間の深い魂に揺り動かされるのがまた人間です。娘を亡くした親の悲しみは誰にも代わってもらえないかもしれない。安田理深(やすだりじん)先生は、悲しみに打ちひしがれているわたしに対して、「耐えなさい、仏法を聞きなさい」と言われるのです。
思いがけない娘さんの自死に、中村氏の悲しみがひしひしと伝わってきます。
親鸞聖人が残された言葉「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし( If
the karmic cause so prompts us, we commit any kind of act. )」に、人は誰でも、しかるべき縁がはたらけば、どのようなふるまいもするものだと、改めて思いました。
この悲しみから抜け出すために、氏には「耐えなさい、仏法を聞きなさい」と励まされる安田氏の言葉が力強く響いていることと思います。
真のいのち ( True Life )
真のいのちは波及する (金子大榮)
最近は家族葬と称して、自分たちの都合で、葬儀を簡略化している傾向にあります。もちろん派手にする必要はありませんが、本当に亡き人のいのち、願いを受け継いだ葬儀になっているか疑問です。
略
かつて元検事総長の伊藤栄樹氏が『人は死ねばゴミになる』という本を出されました。氏は仏教徒の家に生まれた方です。わたしは、人間のいのちは生きても死んでもゴミではないと思います。人間の生きる喜びは、人間関係の中に生きることにあります。そんな中、金子大榮先生は、いのちは肉体的なもののみでなく、願いであるといわれるのです。信のいのちは、人々に生きる力を呼び覚ますものであり、その願いは、周りの人々に及んでいくということです。決して自分だけのものではないのです。
金子大榮氏のいわれるように、真のいのちは、人々に生きる力を与え、波及するものです。
中村氏同様、私も人間のいのちは生きても死んでもゴミではないと思います。
仏教信者の立場からしますと、どうして「人は死ねばゴミになる」のでしょうね。
と言いますのは、たとえ仏教信者でなくても、(すべての)人の命ほど尊いものはないからです。( The reason is because even if people are not believers in Buddhism, nothing is more precious than human life. )
信心が起こったその時罪が消える (Just When You Rearise Shinjin, Sins Vanish)
順誓(じゅんせい)が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられますけれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。すると上人は、 「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である」(といわれました)。(『蓮如上人御一代記聞書』三五より)
蓮如上人は、「罪はないのと同じであるという意味を、往生が定まったときには罪があっても、往生のさまたげにならないからである」と示しておられます。
そして、上記に続いて、罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度も問題にすべきであると諭されています。また、罪が消えてのお救いであろうと、罪が消えないままでのお救いであろうと、それは阿弥陀さまのお計らいであり、私たちが計らうべきことではないとも。
以上より、ただ信心を得ることが如何に大切であるかが、心に深く感じられます。(From the above content, I feel deeply how important for us to only rearise shinjin. )
たった一人の人 ( Only One Person )
この世に生まれてきたかぎり
出遭わなければならない
たった一人のひとがいる
それは自分自身である (広瀬 果(たかし))
仏教では、私たちはこの世に生まれてくる時、阿弥陀仏から仏性(仏になる可能性)を授けられると説かれています。
仏性を与えられているとは心強いことです。必ずや阿弥陀仏の本願を疑いなく聞いて、救われたいものです。
私が出遭うべきたった一人の人とは、阿弥陀仏の本願の力によって救済された私自身だったのです( The only one person I must meet was myself who had already been saved
by the power of Amida Buddha’s Primal Vow. )
凡夫といふは・・・( What Sort of a Person Is a Common Mortal ? )
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらわれたり。(『一念多念文意』)
略
「凡夫」というのは、愚か者ということです。真理を知らず迷い続けるいのちあるもの、とも言えます。ちなみに、英語では、an unenlightened person; a common mortal in bondage to his earthly passions. とあります。なんのことはない、「わたし」のことを言っているのです。
略
欲が満たされれば調子に乗って、もっともっと…..とどこまでも求め続けます。満たされなければ、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむ」のです。求めたことが何でも満たされるわけはありません。満たされないときは、起こって腹を立てるのです。そして満たされている他人をみてそねみ、妬むのです。いつもそんな心を起こし、休むことがない。それもこの世のいのちある限り続く(止まらず、絶えず、消えず)のです。
略
これが、仏法という鏡に映し出された、ありのままの私の姿なのです。私が自分のことを振り返らずとも、そこにはあきらかに自分の姿が示されているのです。
【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀 】
凡夫の姿がありのままに表現されています。凡夫は煩悩に満ち満ちていて、それは臨終の一念まで続いていきます。生涯煩悩まみれで死んで行くのですね。
また、この「凡夫」に関しましては『歎異抄』後序に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」という文言があります。
うそ、いつわりのない念仏という真実があって本当に良かったと、ほっとします。
世間のものさしと仏法のものさし(The Ruler of the World and the Ruler of Buddhism)
世間のものさしと仏法のものさしとどちらが大事か、どちらが有用かなどということはできません。また、どちらか一方を選ばなければならないというものでもありませんし、時と場所に応じて、両方のものさしを使い分けるというものでもありません。常に世間のものさしと仏法のものさしをいっしょに使うことが必要でしょう。違ったものさしをいっしょに使うと、当然のことながらどちらを基準にすればよいのか迷います。
人生の迷いは苦しみのタネですが、世間のものさしと仏法のものさしの違いを認識した上での迷いはとても大切です。常に世間と仏法の違いを感じることでもあります。そこで私の生き方が問われますし、考えなければなりません。考えざるを得なくなってきます
現代社会は、仏法のものさしを基準にすることを忘れてしまっている時代ともいえるでしょう。世間のものさしが絶対的なものではなく、なんとなく歪みが生じているようです。ここで世間のものさしに、仏法のものさしを当ててみることも必要になってきているように思うのです。
【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀(さいこうぎしゅう) 探究社 】
私たちは、この世で生きてゆく限り、世間のものさしに従っていくことが求められます。そうでなければ、世間の秩序が成り立たないからです。それと同様に大事な仏法のものさしの存在があります
筆者は「常に世間のものさしと仏法のものさしを一緒に使うことが必要だ」といっておられます。「そのためには、世間のものさしに仏法のものさしを当ててみることも必要になってくる」とも。
何と言いましても、仏法のものさしを基準にすることが最善の方法だと思います。世間のものさしは変わることがありますが、仏法のものさしは決して変わることがないからです。
浄土への移籍 (The Transfer of One’s Name in the Resister to the Pure Land)
弥陀の誓願不思議を信じたとき、そのとき私たちはもうお浄土への道のスタートに立ちます。成仏の道路は往生でありますが、その往生の道路は信の一念から始まります。だから、阿弥陀さまを信じて生きている人は、もうお浄土へ向かっているわけです。毎日毎日、一瞬一瞬がお浄土へ向かっている。身体は娑婆にいるけれど、心は浄土に移住します。善導大師が「般舟讃」の中で「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意 『親鸞聖人御消息』七五九頁)とおっしゃったように、信心の人はお浄土に籍が移ったのです。身体を持った私の籍は京都市なら京都市にありますが、それは生きているあいだだけの私の戸籍であります。そんな籍はしばらくしたらなくなるわけです。私の籍だけではなく、京都市もやがてなくなります。日本も地球も、いつかは跡形もなく消えてしまうでしょう。それでも、私の存在そのものの籍は永遠のお浄土へ行っているわけですから、移籍した私は決して消えることはありません。お浄土は、生まれも死にもしない清浄の世界ですから永遠です。罪悪深重の凡夫が、阿弥陀さまを信じたとき、凡夫の存在の籍はもうそちらへ移ってしまう。この移籍の大事件が信の一念の瞬間に起こるわけです。
【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上 大峯顯 本願寺出版社 】
善導大師は「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言われました。つまり、阿弥陀さまを信じて生きている人の身体はこの世にあり、戸籍もあるけれど、心は浄土にある。即ち、信心の人は浄土に籍が移っているのです。
宇宙間に存在する森羅万象、生きとし生ける物も、娑婆も、地球も、太陽もいつかは消滅してしまいます。それでも、信心の人の命や籍は消滅しません。永遠の世界である浄土に存在するからです。
遠大な未来の姿が推し量られるようで、感動を覚えます。( I am moved because I can
suppose a great state of things in the future. )
往生は平生に決まる ( Birth in the Pure Land Is Decided in Ordinary Days )
龍樹菩薩は「歓喜地」という境地を身証されたということです。歓喜地とは、菩薩の五十二位の修道の位階である十地の最初の位のことを言います。そうして、そういう境地から人びとに念仏の道をすすめられたのです。親鸞聖人は、「歓喜地は生成聚の位なり」と解釈されています。生成聚とは、「仏になることが定まっている仲間」という意味です。お念仏を信じた人は、この世で、この肉体を持ったままでそういう生成聚に入る。命が終わったその時に、間違いなく仏になる約束がもう出来ている人のことです。
親鸞聖人は、往生浄土は死ぬ時に決まるのではなく、平生の時に決まると言われるのです。仏を信じることが大事であり、臨終のあり方は問題ではないとおっしゃったのです。『歎異抄』の第一条の冒頭にも、そのことが記されています。
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。(『注釈版聖典』八三一頁)
【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上 大峯顯 本願寺出版社 】
浄土往生は平生に決まるのであって、死ぬ時に決まるのではないといわれます。即ち、平生に阿弥陀仏の本願を信じた人は、一息切れたその時に、仏になる身に定まっている人だからです。
死の恐れから開放されて、如来に感謝しながら生きて行くことができます。
それに、「臨終のあり方は問題ではない」と言われますように、たとえば重病に冒されて、苦しみながら死ぬとしても、あるいは何か予期せぬことに巻き込まれて死ぬとしても、なんら問題にならないということです。
仏を信じることで、私たちの前途には明るい未来が開けます。( A blight future opens
before us by believing in Amida Buddha.)
私に願生心はあるか ( Do I Have the Mind of Aspiration for Birth? )
「願生心」とは「極楽に生まれたいという願い」のことです。このことに関して、大峯師は次のように書かれています
「願生心とはもともと、永遠に生きよと私に呼びかけられている如来さまの願心だったのであります。それは私が自力でつくれるものではありません。しかし仏法を聞くと、不思議なことにこの尊い願生心が私の中に生まれてくるのです。それは如来さまの回向のたまものです。もし仏法を聞かなかったら、私たちはただこの世で長生きしたいだけの願いで死ぬことでしょう。もっと生きたい、もっと生きたいばかりの心で死んでしまうのです。ところが、教えに会うと、そうではなくて、自分の中になかったはずの願生心が、私の中に与えられていたことの不思議に驚くのです。
至誠心、深心、回向発願心(願生心)の三つの心がなかったらお浄土には行けない、と善導大師は教えておられます。その大事な願生心を如来さまが私に回向してくださるから、往生浄土はまちがいないということが親鸞聖人の大きな発見であります」
【 『浄土の哲学』高僧和讃を読む 上 大峯顯 本願寺出版社 】
「もし仏法を聞かなかったら、私たちはただこの世で長生きしたいだけの願いで死ぬことでしょう」。この言葉に、末恐ろしくなります。正直、仏法を聞くことができて良かった~と思わずにいられません。
如来さまが願生心を回向して下さることに心から感謝したいと思います ( I would
like to express my deepest gratitude to Amida’ s directing virtue, that is to say, the
Buddha gives us the mind of aspiration for birth in the Pure Land. )
一子のごとく憐念す( To Have Compassion for Just Like an Only Child )
『浄土和讃』の勢至讃、(一一四)には、次の歌があります。
超日月光(阿弥陀仏の十二光の一つ)この身には
念仏三昧(ざんまい)おしえしむ
一子のごとく憐念(れんねん)す 『浄土真宗聖典 註釈版』P.577
如来方は衆生を一子のごとく憐念す、つまり、私たち一人一人を平等に、ひとり子のように深くあわれみ、大切にして下さっているのです。
ところで、菩薩(さとりを求める者)のさとりの位には五十二位あるといわれます。十信(じっしん)・十住(じゅうじゅう)・十行(じゅうぎょう)・十回向(じゅうえこう)・十地(じゅうじ)・等覚(とうがく)・妙覚の五十二位です。
この位に関して、「一子地」という位のあることを知りました。この位は、十地の第一の位であり、歓喜地、初地とも言われます。
菩薩の一子をあわれまれる境地は、親の慈愛そのものでしょう。( A Bodhisattva’s
state will be parents’ graciousness itself. )
自ずと感謝の気持ちが湧いてきます。