お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Karmic Condition(業縁)

 不信の者は、仏といえどもどうしようもないとは、どういうことか。・・・
要は、法然に限らず、日本中世の人々の考え方では、人ははるかな過去からさまざまな業を背負って今ある存在となっているのであり、その業の結果は、仏といえども自由に変えるわけにはゆかないのである。本願念仏に縁がないということは、業のしからしむるところであり、本願念仏に結縁(けちえん)することは長い時間をかけて、いわば機が熟するまでひたすら待つしかないのだ。                              
 思えば、人間の固有性とは、法然の立場からいわしめれば、人々の背負っている業のなかにある。人が業縁的存在であることこそ、その人の固有性の根拠にほかならない。Aという人間が、BやCという人とは異なり、Zという人ともちがう固有の意味を有しているのは、Aが背負っている業が固有だからである。                      
 このような考え方においては、一つの価値を絶対視して、それらをあらゆる人々に強制するということは生まれない。たしかに法然は、本願念仏を至上主義の教えとする。それはあくまでも「凡夫」の自覚に立った人々が納得することがらであり、万人がただちに納得するわけではない。「凡夫」にとっては、念仏は絶対であり、「諸行」は捨てて省みられないであろう。だが、そうした自覚がない人にまで、念仏の押し売りをすることはできないし、「諸行」を否定するわけではない。                           
        【 「法然を読む」 阿満利麿  】           
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 「人ははるかな過去からさまざまな業を背負って今ある存在となっているのであり、その業の結果は、仏といえども自由に変えるわけにはゆかないのである 
(What one is at present has been made up by various karmas he has long carried
with him since the far past. Even the Buddha can’t freely change the results
of them.) この筆者の言葉をとても重く感じます。過去をふり返れば、どんな業を背負って今生にたどり着いたのかわかりません。ただわかることは、仏縁に出遇えたという業縁があったこと。仏さまの気の遠くなるような過去からの調機誘因のお働きがあったからこそ、と思います。全く有り難いことです。