お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

The Mind of Aspiration for Birth(願生心)

 人の顔が違うように、個人の願いはみんな違います。けれども、お浄土に生まれたいという願いだけは、個人を超えた願いです。個人を超えたと言っても、個人と関係がないということではありません。個人の根底を流れているいのちそのものの願いです。その願いを私たちはどんなことがあっても離れることはできないんです。お浄土に生まれたいなんていう願いは私たちにないように思っておりますけど、実はあるのです。           
 それを見つけて下さった方のことを法蔵菩薩と申し上げるのです。その法蔵菩薩の成仏した姿である阿弥陀如来の言葉を聞いて、私たちは初めて「ああそうだったな」とわからしてもらうんです。自分の力では決してわからない自分自身の本当の願いがわかる。それを親鸞聖人は、願生心は如来さまが下さるんだと言われたのです。至心も信楽も欲生も、つまり、まことの心も、仏様を信じる心も、お浄土に生まれたいと願う願生の心も、みんな如来さまがナンマンダブツの名号の中に込めて下さってある、これを他力の回向というのです。  
  【 『自然の道理「歎異抄」第十条』 大峯顯 百華苑  】           
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 願生心(がんしょうしん)とは浄土に生まれたいと願う心ですが、このような心が私の中にあったなんて、自分の力では到底わからないことでした。考えてみますと、自分の出生さえ、なぜこの世に生まれたのか、気がつけば生まれていたのであって、なぜ?と自問してもわかりません。ましてや、出生前の過去世にはどこにいたのかもわかりませんし、もし、仏法を聞かなかったら、この世を去った後はどうなるのかも皆目わからないところでした。 


 でも、仏法を聞き、阿弥陀仏の存在を知らされ、阿弥陀仏の言葉によって、すべての謎が明らかにされたのです。(However, all that I did not know were made clear
by hearing Buddhism, being made to know Amida Buddha’s existence and hearing
the Buddha’s words. )


 「まことの心も、仏様を信じる心も、お浄土に生まれたいと願う願生の心も、すべて名号の中に込めて」阿弥陀仏が与えて下さっていたからでした。本当に有り難いことです。