お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

A Journey(旅)

悲しい自分が見る風景は悲しい                           
             関川夏央                        
 旅情には「失意と悲哀」がつきものだ。車窓をよぎる風景の中に、「悲嘆にくれる自分」が含まれて旅情は成り立つと作家は言う。かつて人は流行歌の中で「北帰行」や、「海峡」にそのような思いを込めた。駅では別れを惜しみ、沿線では人々が汽車に向かって手を振った。「汚れた過去」からの避難場所として旅はあった。では、昨今の旅の「情」とは?『豪雨の前兆』から。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)          


 「悲しい自分が見る風景は悲しい」の「悲しい」の部分を、例えば「楽しい」に置きかえれば「楽しい自分が見る風景は楽しい」になります。この部分には、喜怒哀楽のいろいろな感情が当てはまり、その時々の自分の気持ちの違いによって風景も違って見えるものです。ですから、私は「昨今の旅の“情”」も、昔とさほど変わらないのではないかと思います。                                   


 ところで、人生はよく旅に譬えられますが、私たちはどのような旅をしているのでしょう。このことを仏教の観点から考えるとき、「正信偈」の中の次の一節が思い浮かびます。「無明の闇は晴れても煩悩の雲は消えずに、たえず真実信心の天を覆っている。しかし、たとえ日光が暗い雲一面に覆われても、その雲の下は明るくて闇がないようなものである」。つまりここで言われていることは、「煩悩の雲で覆われた私たちの人生の旅は、絶えず苦しみや悩みに晒され続けますが、仏法を聞いて無明の闇が晴れた人の心の底は、常に明るくて闇が無い」ということです。                               
 以上のようなことから、仏教の観点から見た「旅の“情”」は次のように言えるでしょう。               


「実際に行われるいろいろな旅は、それぞれが長い人生の旅の一コマ一コマですから、真実の信心を得た人の「旅の“情”」は、いつでも、どこでも、心は明るく喜びが多い」ということです。( We take various trips. Each of them is one scene in our life’s
journeys,so an enlightened person’s feelings of each trip are always bright and joyful in the bottom of his heart. )