お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Larger Sutra of Immeasurable Life(『大無量寿経』)

 研修会などで「なぜ浄土真宗は『般若心経』(はんにゃしんぎょう)を読まないのですか?」という質問が出ます。『般若心経』は短い経典です。その教えは、一言でいえば「般若」(インドの古い時代の凡語のプラジュニヤの音訳で「智慧」と意訳します)を身につけて、さとりを開く(仏になる)という教えです。煩悩を断って、智慧を身につけなければならないという自力の教えが説かれています。親鸞聖人は、比叡山における青年時代、まさにこの苦闘の道を歩まれました。                               

 どれほど素晴らしい高等な教えであっても、自分にとって実践不可能な内容の道であれば不要なものになります。前項でご紹介しましたように、親鸞聖人は、ご自身のことを“凡夫”と認識され、この自力の道を棄(す)てられました。そして「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」(『歎異抄』『注釈聖典』八三二頁)という道を歩まれました。  

 親鸞聖人は「一切経」の中で『大無量寿経』を「真実の教え」といただかれました。そして他の教えは「総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである」(『一念多念文意(現代語版)』三〇頁)と述べられています。     

   【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 本願寺出版社 】   

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  親鸞聖人は『大無量寿経』を「真実の教え」と言われました。阿弥陀如来の48願が誓われており、最も大事な経典であるといわれます。                   

  お釈迦様は次の言葉を『大無量寿経』下巻の中に遺しておられます。         

 「当来の世に教道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍(あいみん)して、特に此の経を留めて止住(しじゅう)すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値(もうあ)うものは意(こころ)の所願に随(したが)いてみな得度すべし」(『浄土真宗聖典』)      

( In the future, all the sutras will become extinct. However, out of compassion and

pity, I will ensure that this sutra alone remains for a further one hundred years. Those

sentient beings who encounter this sutra will attain emancipation in accordance with

their aspiration.)   < “ The Three Pure Land Sutra” Volume Ⅱ>

  上記第二段落目の意味は次のようです。                       

 「やがて将来、わたしが示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈(いつく)しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう」『浄土三部経(現代語版)』                     

  私が最もうれしく思うことは、お釈迦さまの説かれた教えが将来ことごとくなくなってしまうけれど、『大無量寿経』だけはいつまでも残ると仰っていることです。五濁の世の唯一の灯りです。