お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

愚者の私こそ目当て ( The Object Is Me Who Is the Very Fool. ) 

 人生が順調な時は、知らず知らずのうちに、この生活環境は“オレの才能”“オレの努力”という「オレ我(が)」(自我)意識が頭を持ち上げてきます。とても“おかげさま”という心が持てません。わたくしたちは日常生活で頭を下ることはあっても頭下がることは滅多にない頑固な存在です。「下がるほど人が見上げる藤の花」という句があります。藤の花が私心なく精いっぱい咲いている美しさに感動して、見上げずにはおれない気持ちを詠まれたのでしょう。                                

 親鸞聖人は「「賢者の信は、内(うち)は賢(けん)にして外(ほか)は愚(ぐ)なり。愚禿(ぐとく)が心は、内は愚にして外は賢なり」(『註釈版聖典』五〇一頁)と記されています。恩師法然上人をはじめとする七高僧方の賢者の信に対して、ご自身の愚者の心の内面を赤裸々に表明されています。わたくしは賢者ぶろうと表面を取り繕(つくろ)って振る舞い、とても愚者にはなれそうもありません。阿弥陀如来は賢者は傍(かたわ)らにおいてでも、無明の真っただ中にあり、煩悩に執われ苦悩を抱え込んで呻吟(しんぎん)しているわたくしをこそ愚者と目覚めさせ、見捨ててはおけない仏さまです。何としても放っておけないと、やるせない心で抱きしめてくださる仏さまです。その大きなお慈悲の心がいただけたなら、頭を下げねばならないのではなく、下げずにはおれなくなります。        

   この身これ たふとくあるか 否あらず                    

   ぬかずくひとを 尊しと思ふ  (九篠武子夫人)               

  【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 p.93 l.9 ~ p.95 l.6   】     

 

 親鸞聖人は私たち凡夫の姿を『一念多念文意』の中でこのように仰っています。「『凡夫』というは無明煩悩われらが身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず、消えず、絶えず」。凡夫とは、このような愚か者のことをいいます。阿弥陀如来の救いのお目当ては正にこのような愚者なのです。必ず助けるという如来の本願を聞いて見えてきたものは、煩悩まみれの自己の姿であり、愚者であったと気づかされます。                        

 法然上人は、「愚者になりて往生す ( The one who is a fool is born in the Pure

Land as what a fool is. )。」という言葉を残していかれました。            

 「下がるほど人が見上げる藤の花」、自ずと頭が下がる姿は尊く美しいものです。