お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

「南無阿弥陀仏」という言葉 (The Word “Namu-amida-butsu”) 

 南無阿弥陀仏ということは、私たちが如来様に向かって言うよりも前に、如来様の方から自分自身を名乗り、私たちを喚ばれている言葉なんです。だから、私どもが言っている南無阿弥陀仏は、その如来様の呼び声の反響だと言ってもよいですね。私たちよりも先に、向こうからこちらへ発信して下さっている言葉があるのです。「帰命とは本願召喚の勅命なり」と親鸞聖人が言われているように、私たちが如来様に帰命できるのは、帰命せよという如来様の勅命が先にあるからなのです。南無阿弥陀仏という私たちの念仏は、如来様が「私はいつもお前と共にいるよ」と言われる言葉、如来如来自身を名のっていることと別にはありません。名号は名乗り、名告ですね。如来様は御自分の存在を私たちに告げるのに、言葉以外の形を選ばれず、ただ言葉を選ばれたのです。だから南無阿弥陀仏という言葉は、人間が発明して社会の実生活で使っているような言葉ではありません。そういう社会的言語をしてはじめて言語たらしめるような根源的な言語です。単なる言葉ではなくて言葉の言葉だということもできます。この言葉を受け入れる人はことごとく仏に成るというのが『大無量寿経』が教えている真理であります。                        

【 無碍の一道 『歎異抄』第七条・第八条 大峯顯 (P.56 l.9 ~ P.57 l.10)より 】    

 

 「南無阿弥陀仏」という言葉は、人間が作った言葉ではありません。阿弥陀仏が作られた言葉です。ですから、「私たちの人間社会では根源的な言葉であり、“言葉の言葉”だということもできます」と、大峯師は仰っています。                    

 また、「この言葉、即ち“南無阿弥陀仏”を受け入れる人はことごとく仏になる( All

of those who get the word “Namu-amida-butsu” become a Buddha.)。」のですから、この上なく大切な言葉なのです。                            

 更に付け加えますと、「受け入れる」という言葉の先には「帰命(= 南無;心から信じ敬うこと)とは本願召喚の勅命なり衆生に帰命せよと命じる如来の呼び声なり)」という言葉があるといわれます。常に阿弥陀如来は私たち凡夫の一歩手前で導いておられるということであり、実に有り難いことと言わねばなりません。