お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

臨終の時の様子 ( The Appearances in One’s Last Moments ) 

 では、(親鸞)聖人のようにお念仏を申しつつ、静かに臨終を迎えなければ救われないのかといえば、決してそうではありません。平常からお聴聞(聞法)を重ね、阿弥陀如来のご信心を得たならば、どのような状況であろうとも間違いなく往生が定まるご本願です。全然心配しなくていいのです。                            

 お念仏をよろこぶ人は、人間としての寿命を終えたならば(臨終を迎えたならば)瞬時にしてさとりを開き、成仏させていただくのです。臨終の時の言動のよし悪しや、社会的地位、財産や知識の多少などは条件になりせん。信を得て、お念仏を称えつつご恩報謝の人生を歩まれた人は、阿弥陀如来のご本願を聞信(もんしん)したなら、みな平等に、空しい人生には決してしないという願いなのですから。                      

【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 ( P.110 l.6 ~ P.111 l.4 ) 】 

 

 死の縁無量といわれます( It is said that the way to die is infinite. )。人の人生がそれぞれ違うように、人それぞれの死に方もさまざまです。ここで言われていますように、静かに臨終を迎えなければ救われないということでは決してありません。一寸先は闇といわれるこの世に於いて、いろいろの事故や、病気で亡くなる人も多くあるでしょう。しかし、「阿弥陀如来のご信心を得たならば、どのような状況であろうとも間違いなく往生が定まるご本願です」。このことが、浄土真宗のみ教えの大きな特色の一つでもあるといわれます。  

  「臨終の時」の様子について、医学的立場からの見解が述べられています。よろしければ下記リンクから覗いてみて下さいね。                        

 https://miko415.hatenablog.com/archive/2014/05/23 ( 死の瞬間  )