見える? 見えない? 本願力 (Can You See, or Can’t You See the Power of the Primal Vow?)
“心ここに在(あ)らざれば 視(み)れども見えず 聴けども聞こえず”という言葉を目にしたことがあります。わたくしたちはあまりにも偉大なもの、素晴らしいものは、自分の全知力を傾注しても、その全体像を認識することは極めて難しいことです。また、見たつもりでも自分に都合のよい色メガネを通して見てしまいます。これまで身につけた学問や豊富な人生経験をどれだけ駆使しても、とても見ることはできません。その最たるものが阿弥陀如来の「本願力」です。
しかし、「だから本願など信じられない。どうして証明できるの?」と理屈を並べます。
迷いのド真ん中にいて、右往左往していること自体に気づかずにいるわたくしに対して、何としても目覚めておくれとよびかけられているのが“南無阿弥陀仏”のおよび声なのです。
これにも「いくら耳をそばだてても、その声が聞こえないではないか?」と反論します。
親鸞聖人は「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明見ざれども 大悲ものうきことなくして つねにわが身をてらすなり」(『注釈版聖典』五九五頁)と和讃に詠まれています。
自分自身のはからい(自力)に執われている限り、阿弥陀如来の真実のはたらきは見えません。このはからいから解き放たれた時、いままで見えなかったものが見えてきます。聞こえなかったことが聞こえてきます。
【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 ( p.114 l.6 ~ p.116 l.6 )より 】
上記に「自分自身のはからい(自力)に執われている限り、阿弥陀如来のはたらきは見えません。聞くこともできません。…… 」。とあります。聴聞する上で最も大切なところです。前回書きました蓮如上人のお言葉にありますように、「弥陀にお任せする信心ただ一つで仏になる」、つまり、信心を頂けるのです。「どうしたら救われるのか。どうしたら、どうしたら…… 」と、自力に執心する限りは救われないのです。
「この自力の執心から解放された時、即ち如来にお任せしたときに救われることを強調されています ( It is emphasized that we are enlightened when released from the
attachment of our self-powers, in other words, when we leave ourselves to Amida
Buddha. )。」