お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

悪人正機( Evildoers Are the Very Beings Who Are the Object of the Salvation )

 「自力で成した善行をたのんで往生しようとしている善人は、ひとすじに本願他力(にまかせなさいといわれている本願)を受け入れる信心が欠けていますから、阿弥陀仏の本願に背いています。けれども、そういう人も、自力をたのむこころを改めて、本願他力をたのみ、おまかせするならば(本願力によって)、さとりの境界である真実報土に往生をとげることができます。                                   

 あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行によっても、生死の迷いを超え離れることはできません。そのような私どもを憐れんで、たすけようと本願を起こされたのですから、そのご本意は、(煩悩具足の)悪人を仏にならせるためだったといわねばなりません。ですから、本願他力をたのみ、まかせきっている悪人こそ、第一に往生すべき正当な理由のあるものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだから、まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした」というのです。このような考え方を悪人正機と呼んでおります。だから、親鸞聖人がおっしゃっていたことは確かです。  

     【 『親鸞聖人の教え・問答集』  梯 實圓  大法輪郭  】      

 

 この「悪人正機(しょうき)」という言葉は、親鸞聖人が『歎異抄』第三条で初めて使われた言葉だといわれます。悪人こそが正機、つまり機とは「人間」という意味ですから、「悪人正機」とは「悪人こそが正(まさ)しく救いの対象の人である」ということです。   

 なお、この三条で、聖人は「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人おば。(Even

a good person attains birth in the Pure land, so it goes without saying that an evil

person will. )」(善人ですら往生できるのだから、ましてや悪人が往生できるのは当然である)と言っておられます。                             

 ところが、世間では「悪人でさえ往生できるのだから、善人が往生できるのは当たり前である」と考えるのが普通です。                           

 ここで、大切なことは、仏教の教える「善人」、「悪人」の意味です。聖人の言われる「善人」とは、自分の力(自力)で往生できるとうぬぼれている人、つまり、阿弥陀仏の本願他力を頼まない人、「悪人」とは自力の行が何一つできない凡夫だと自覚した人、つまり、本願他力を頼み、まかせきっている人のことです。ですから、「善人でさえも往生させていただくのだから、まして悪人はなおさらのことである」と聖人が言われるのは当然です。  

 「愚者になりて往生す」と、親鸞聖人が『末燈鈔』の中で、師である法然上人から直接聞かれた言葉として残されていますが、「愚者」は「悪人」と通じるところがあると思われます。