お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

釈迦と阿弥陀は私たちの両親( Sakyamuni and Amida are Our Parents )

 釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母 『末燈鈔』(お釈迦様と阿弥陀仏は、わたくしたちにとって、慈悲深い両親です)                         

 仏教の開創者であった釈迦牟尼仏浄土教で信仰する阿弥陀仏との関係を、まことに明確に表している言葉だと思います。                         

 もし、釈迦牟尼仏がこの世に出現しなかったとしたならば、仏教という宗教は存在しなかったわけですから、その中で説かれるようになってくる浄土教も、さらには教主としての阿弥陀仏も、当然わたくしたちにはまったくわからなかったのです。           

 そういった意味では、この二人の仏は、ちょうど車の両輪のようでもありますし、さらには、両親のようでもあるわけです。釈迦如来阿弥陀仏のどちらかが欠けていても、何の役にも立たないわけです。                              

 人間の一人一人は、一人の父と一人の母とから生まれてくるのであって、しかも、生まれてからあとは、その両方の大きな慈悲、すなわち愛情に支えられて成長することになります。これと同じように、阿弥陀仏の本願力は、釈迦牟尼仏の説いた経典を通してわたくしたちに伝えられたのですから、この二人の仏こそ、まさに慈悲の父母、ということになります。 

         【 『親鸞の人生訓』  花山 勝友  】

 

 もし阿弥陀仏もお釈迦様もおられなかったら、私たちは仏教を聞くことはできませんでした。二人の存在はとても重要です。仏の教えは一切経に残されていますので、今でも聞かせて頂けるのですから、ありがたいことです。「阿弥陀仏の本願力は、釈迦牟尼仏の説いた経典を通して伝えられた」という事実、二人の仏は慈悲の父母といわれる所以です。                                 

 このことに関連して、高僧和讃には次のような詠があります。            

釈迦・弥陀は慈悲の父母                              

Sakyamuni and Amida are our father and our mother, full of love and compassion

for us;

種々に善巧方便し                                 

Guiding us through various skillful means,

われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり                    

They bring us to awaken the supreme shinjin.(『英訳親鸞聖人著作集』より)