お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

末法の自覚 ( One’s Consciousness of the Last Dharma-age ) 

 『往生論註』(曇鸞和尚)には、どうして易行道でなければならないかという理由が書かれています。難行道がどうして難しいかといいますと、私どもが本質的に凡夫だということはもちろんでありますが、ただそれだけではありません。もうひとつの理由に、私どもの時代の性格が昔とすっかり変わってしまったという歴史的状況があります。        

 (略)                                     

 つまり、私たちの生きている時代は、すでにお釈迦さまが亡くなっておられ、仏道を修する人も、悟りを開いた人もない、無仏の世、末法の世です。              

  【 『浄土の哲学 高僧和讃を読む 上 』 大峯顯  本願寺出版社  】    

 

 大峯師が指摘されている難行道が難しいと言われる、私たちの時代の歴史的状況について、仏教には「三時」と呼ばれる時代があることが教えられています。         

 その意味を『浄土真宗聖典』より引用します。「正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法の三時をいう。釈尊入滅後、時代が移るにつれて次第に仏教が衰微していく状況を正、像、末の三時代にわけたもの。その年限においては諸説あるが、正法五百年(あるいは千年)、像法千年、末法一万年説が一般的である」                      

 その各時代の特徴はつぎのようです。(同じく『浄土真宗聖典』より)         

 正法;教(仏の教法)と行(実践)と証(さとり)のすべてが具わっている時代。   

 像法;正法の後一千年つづくという。証(さとり)はないが、教(仏の教法)と行(実践)の二つが在していて、正法時に似ている時代のこと。                 

 末法;像法の後、一万年つづくという。教のみあって、行と証のない仏教衰微の時代。なお末法を過ぎて教法もなくなる時代を法滅という。                  

 現代は末法の初期に当たります。ですので、難行道で証を開くのは不可能な時代です。 

 ところで、上記「末法」の説明の後半には、このように書かれています。「道綽禅師は、今時(こんじ)、末法という自覚に立って、末法に生きる凡夫の救いを説くのが他力浄土の教(易行道)であると規定した。以来、浄土の教法は、滅亡していく自力聖道の教(難行道)に対して末法相応の教として確立されていった」                   

 他力浄土の教えがあって良かったと、心から思います。末法の世を照らす唯一の明かりです。( I heartily think it good that we have the teaching of Other Power. That teaching

is the only light which illuminates the world in the last Dharma-age. )