お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

法然上人と称名念仏 ( St. Honen and Saying the Name ) 

 お念仏ということはとても大事です。法然上人は称名念仏を大事になさって、一日に六万遍もお念仏をなさっていますけれども、これは決してたくさん称えたら往生するということではありません。たくさんお念仏を称えたら往生するというのなら、称名が自分の功績になります。そうではなく、称名念仏がお浄土に往生する因ではなくて、仏を信じることが正因だと言われるのです。「正定の因はただ信心なり」と、「正信偈」にあるとおりです。それでは称名念仏は何かというと報恩です。救われがたい私を救ってくださる如来さまのご恩に報ずることにほかならないと、蓮如上人は教えておられます。親鸞聖人もやはり「正信偈」の中に「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」と述べておられます。           

    【 『浄土の哲学 高僧和讃を読む 上 』  大峯顯  】         

 

 まず、法然上人が一日に六万遍の念仏をなさっていたということに敬嘆しました。もちろん、書かれていますように、往生するために念仏するのではありません。        

 「正定の因はただ信心なり」とありますように、「浄土往生の真因は疑いなく本願を受け入れる信心一つである」からです。ですので、念仏は信心を頂いたことに対する報恩であります。                                      

 でも、どうしてこれほどまでに法然上人は念仏に専心されたのでしょうか。『ウィキペディア』にはこのように書かれています。「(法然上人は)承安5年(1175年)43歳の時、善導の『感無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで新たに「浄土宗」を開こうと考えた」。つまり、専修念仏を奉ずるためだったのです。   

 ところで、この念仏は私たちの日々の生活の中で、大いに勧められています。改めて次の言葉に、念仏の大切さを感じます。                    

 「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活が営まれる。(和田 稠)」     

( We do not say the Nembutsu as a mere routine in our lives, but rather, we live our

lives centered on the Nembutsu. )