お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

もしかしたら死ぬのかもしれない (Maybe I May Die) 

 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆること(少し病気のこともあって、もう死ぬのではないかと心細く思うこともあります)歎異抄』第九章  

 日ごろは元気に過ごしている人でも、健康がすぐれないようなことになりますと、何となく心が沈んで、「このまま死んでしまうのではないか」と心配になるものです。      

 たとえばどんなに重い病気になったとしましても、必ず快復する、という保証があれば、病気そのものはそんなに怖いものではないのかもしれません。わたくしたちが、病気になって一番気にすることは、それがそのまま死につながるのではなかろうか、ということです。                                       

 “病は気から”と言われますように、いったんそのように思い込んでしまいますと、死に対する恐怖心から、治るべき病気も治らなくなってしまうことになりかねません。    

 そういった意味では、人間にとって恐ろしいのは、肉体的な病よりも、精神的な病、といってもよいでしょう。ちょっとした所労(病気)になったとき、だれでもが感じるこんな気持ちを、もう一度考え直してみる必要があるでしょう。                

 親鸞も一人の人間として、年をとり、病になり、日々さまざまな不安があったことでしょう。どんなに強い精神を持っていても、これが人間らしさなのかもしれません。     

       【 『親鸞の人生訓』  花山勝友  PHP  】           

 

 親鸞聖人の語録である『歎異抄』の第九章には「少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われるのも、煩悩のしわざです ( We think forlornly that we may die even when we become slightly ill; this also is the action of blind passions. )と書かれています」。                                      

 ですので、親鸞聖人のように「どんなに強い精神を持っておられる方」でも、煩悩には、かなわない、つまり、これが人間の実相なのだと思い知らされます。でも、「これが人間らしさなのかもしれません」。                             

 

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