お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

無生の生 ( The Birth of No-Birth ) ( 2 )

 お浄土を信じるといっても、有るとか無いとか決めようとしたら間違ってしまうのです。有るとか無いとか分別しないところにお浄土はあるのです。人間の分別のとどかない世界のことを浄土と呼びます。お浄土がどこにあり、「それはこういうところだ」と分別したら、 お浄土ではなくなってしまうのです。しかし、お浄土なんか無いと言ったら、これもやはり間違ってしまいます、浄土の有無は人間の頭で分別することはできません。お浄土は有無の二見を超えています。

 だから、お浄土に生まれると言っても、わたし達は「オギャー」といって人間界に生まれてきたのですけれども、そういうお母さんのお腹から出てくるような生まれ方は、お浄土に生まれる時はしません。そうではなくて、曇鸞大師が言われたように、「無生の生」という生、この世の生でないような生がお浄土の生です。なぜかと言うと、「オギャー」といって生まれた生はいつかまた終わります。死というものをすでに持っている生は、やはり死と相対的な生死の生であって、本当の生ではありません。お浄土の生は、われわれが考えているような「生」、生まれては死に、死んでは生まれる迷いの生ではない。もしこの世の生を生というなら、浄土の生はむしろ「無生」と言う方が正しいでしょう。「無生の生」とは、われわれが自分で生だと考えているような生のことではなくて、阿弥陀如来の清浄なる本願力によっていただく、あるがままの生、真実の生のことを言うのです。

     【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上  大峯 顯  】

 

  「浄土とは、どこにあり、どのような所なのか、ということは人間の分別を超えたものである ( It is beyond our discretion that where the Pure Land is, and what its place is

like.」と言っておられます。従って、そのような有無の二見を超えた浄土での生まれ方は、人間の考えているような、母親のお腹から生まれて来るような生まれ方ではないと言われても、すっと納得できます。また、最終部分の、「もしこの世の生を生というなら、浄土の生は『無生』と言う方が正しいでしょう。・・・・・・・・・・・・『無生の生』とは、われわれが自分で生だと感じているような生のことではなくて・・・・・真実の生のことを言うのです」の件からは、「『無生の生』の意味もはっきり捉えられます。( We can understand the meaning of the birth of no-birth. )」。