「何かのために」の「ために」を捨てよ ( Throw Away “for” of “for Something” )
無功徳 / 景徳伝燈録
将来のために貯金をする。若々しくいるために運動する。人は何かの「ために」努力をしようとします。それは、「善いことにつとめれば、善いことが返って来る」と考えているからです。
梁(りょう)の皇帝であった武帝も、そう考え仏教を厚く守護してきました。さぞや功徳もあることだろうと、禅宗の祖・達磨(だるま)大師に尋ねたところ返ってきたのがこの言葉 ― 無功徳(功徳なんてない)です。
仏教は努力することを大切にしていますが、それは幸せになるためにする努力ではありません。努力そのものを楽しむ、そうした努力です。
武帝は功徳なんかにこだわらず、ただ仏といる時間を楽しめばよかったのです。だから、そんな善行には功徳なんかないよ。達磨大師は、そう言っているのでしょう。
何かの「ために」と頑張るあまり、いまを楽しむことを忘れていませんか。人は「いまこの瞬間」にこそ、生きているんですよ。
【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修] 】
仏教でいう努力とは、「努力そのものを楽しむ、そうした努力」であるといわれます。そういえば、仏さま方は、還相回向という阿弥陀さまのお働きにより、この世で衆生済度に活躍しておられます。その時の仏さまのお気持ちは、遊びの境地で、つまり済度を「楽しんで」行っておられるといわれます。
「仏さま方の、楽しむという境地を見習いたいものです。( We would like to follow
Buddhas’ state. of enjoyment.)」。