お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

往生は平生に決まる ( Birth in the Pure Land Is Decided in Ordinary Days )

 龍樹菩薩は「歓喜地」という境地を身証されたということです。歓喜地とは、菩薩の五十二位の修道の位階である十地の最初の位のことを言います。そうして、そういう境地から人びとに念仏の道をすすめられたのです。親鸞聖人は、「歓喜地は生成聚の位なり」と解釈されています。生成聚とは、「仏になることが定まっている仲間」という意味です。お念仏を信じた人は、この世で、この肉体を持ったままでそういう生成聚に入る。命が終わったその時に、間違いなく仏になる約束がもう出来ている人のことです。

 親鸞聖人は、往生浄土は死ぬ時に決まるのではなく、平生の時に決まると言われるのです。仏を信じることが大事であり、臨終のあり方は問題ではないとおっしゃったのです。歎異抄』の第一条の冒頭にも、そのことが記されています。

 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。(『注釈版聖典』八三一頁)

    【 『浄土の哲学』 高僧和讃を読む 上  大峯顯 本願寺出版社  】

 

 浄土往生は平生に決まるのであって、死ぬ時に決まるのではないといわれます。即ち、平生に阿弥陀仏の本願を信じた人は、一息切れたその時に、仏になる身に定まっている人だからです。

 死の恐れから開放されて、如来に感謝しながら生きて行くことができます。

 それに、「臨終のあり方は問題ではない」と言われますように、たとえば重病に冒されて、苦しみながら死ぬとしても、あるいは何か予期せぬことに巻き込まれて死ぬとしても、なんら問題にならないということです。

 仏を信じることで、私たちの前途には明るい未来が開けます。( A blight future opens

before us by believing in Amida Buddha.)