お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

凡夫といふは・・・( What Sort of a Person Is a Common Mortal ? )

 「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらわれたり。(『一念多念文意』)

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 「凡夫」というのは、愚か者ということです。真理を知らず迷い続けるいのちあるもの、とも言えます。ちなみに、英語では、an unenlightened person; a common mortal in bondage to his earthly passions. とあります。なんのことはない、「わたし」のことを言っているのです。

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 欲が満たされれば調子に乗って、もっともっと…..とどこまでも求め続けます。満たされなければ、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむ」のです。求めたことが何でも満たされるわけはありません。満たされないときは、起こって腹を立てるのです。そして満たされている他人をみてそねみ、妬むのです。いつもそんな心を起こし、休むことがない。それもこの世のいのちある限り続く(止まらず、絶えず、消えず)のです。

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 これが、仏法という鏡に映し出された、ありのままの私の姿なのです。私が自分のことを振り返らずとも、そこにはあきらかに自分の姿が示されているのです。

      【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀  】

 

 凡夫の姿がありのままに表現されています。凡夫は煩悩に満ち満ちていて、それは臨終の一念まで続いていきます。生涯煩悩まみれで死んで行くのですね。

 また、この「凡夫」に関しましては『歎異抄』後序に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」という文言があります。

 うそ、いつわりのない念仏という真実があって本当に良かったと、ほっとします。

 ※ 火宅;煩悩に満ちたこの娑婆世界を燃えさかる家に喩えていう。(『浄土真宗聖典』巻末註より)