Wrapped Up in the Name(まことに包まれて)
南無阿弥陀仏の名号はわずか六字ですが、「この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」と蓮如上人は「御文章」でおっしゃっています。仏さまのまことのすべてが込められているのです。
絶大な効能を持つ薬も、一口で飲める錠剤としてつくられるように、お名号はほかの行に勝れていて、なおたもちやすく称えやすく仕上げられています。
妙好人の浅原才市同行は、「さいちが病気は、なむあみだぶつを のみこめばなおるか いや そんならどうすればなおるか へ さいちが病気は なむあみだぶつさまに のみこまれるで なおるであります」と詠んでおられます。
その称えやすさから、お名号は一粒の丸薬を飲むかのように思いましたが、実は広大なまことに私のほうが丸のみされている事態だったのです。
自分で称えているつもりが、称えるほどに、まことに包まれていたことが知られて、いっそうありがたくうれしいのです。( I think I say the Name by myself.
However, the more often I say the Name, the more valuably I think about it, and
I am glad to know that I have been wrapped up in the truth, or the Name. )
【 「みんなの法話」 高田未明 (本願寺新報第3173号より) 】 ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
ここで、「まこと」と言われているのは名号の事だとわかります。名号には仏さまのまことがすべて込められているからです。また、文中に「自分で称えているつもりが・・・」とありますが、それはあくまでも「つもり」であって、実際は名号に包まれていることだと説明されています。
この名号に関して、才市さんは「名号、私に当たって南無阿弥陀仏」とも言っています。これは阿弥陀さまが発せられた「南無阿弥陀仏」のこだまですから、自分の力で称えているのではないことがわかります。また、「名号だけは、どんな場合でも絶対に自分では称えられない」という大峯顯師の言葉が思い出されます。
「南無阿弥陀仏」と称えるたびに、阿弥陀さまのまことに包まれていることが実感できるとは、これほど安心できることはありません。