2017-01-01から1年間の記事一覧
もう今年も終わろうとしています。例年に違わず、あっという間の一年でした。 年の初めに掲げた私の目標は「念仏を中心にした生活を営む」というものでしたが、念仏を通していつも阿弥陀さまと一緒の自分が実感できたことは、何より有り難い事だったと思って…
今月上旬のある日、長い夜もすでに開けた朝6時半ごろのことです。その日は、家の中にいても、外はどうも小雨が降っているような気配が感じられました。でもカーテンを開けると、目に飛び込んできたのは月だったのです。一瞬「えっ」と思いました。間違いなく…
年の瀬も迫り、店頭に門松等の正月飾りが並ぶ時期になりました。この「門松」を用いて、室町時代の臨済宗の僧、一休さんが、「門松は冥土の旅の一里塚 ( The New Year’s gate decorations are but milestones on our road to Hades.) 」と歌ったことはよく知…
You can check out any time you like, but you can never leave イーグルス 「チェックアウトはいつでもできるが、ここを去ることはついにできない」。 米国のロックバンドの代表曲「ホテル・カリフォルニア」から。1960年代末のカウンターカルチャーの高揚…
「法然上人行状画図」によれば、 ある夜更(よふ)けに、法然上人が声高に念仏しているので、正信房が老体を痛わしく思って、何か用事でもと思って、そっとやり戸を開けて見ると、法然の身体から赫奕(かくえき)として光が現れて、座っている畳二畳に一ぱい…
今日は気分がいいから教えてあげよう。人生はな、冥土までの暇つぶしや。だから、上等の暇つぶしをせにゃあかんのだ。<今東光(こんとうこう)> 「週刊プレイボーイ」の元編集長、島地勝彦は、若い頃、中尊寺貫主(ちゅうそんじかんす)でもある作家に、「…
法然はこれまで往生要集や、善導の疏(しょ)をいくたびか読んでもさほどまで心に触れずに読み過ごした文字がいったん心機が熟するや、全く新しい、神来的な光明をもって、新天地、新世界を啓(ひら)いて見せたのである。その文字は散善義の、 「一心に専(…
「時節到来」の意味について、蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』(一〇五)の中で次のように仰っています。 「時節到来という言葉がある。あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。何一つ用心もしないで事がおこっ…
つい最近のことですが、二男から小袋に入った梅干しをもらいました。それを見たとたん、口の中が酸っぱくなりました。 梅干しといえば思い出されるのが、二男がまだ口もうまく利けなかった幼児の頃のことです。「梅干し」と、私が言っただけで、いかにも酸っ…
(略) 曇鸞大師(6世紀に活躍した中国の僧)は、慈悲について述べる中で、阿弥陀さまの慈悲を「無縁、これ大悲なり」(『往生論註』上巻、『注釈版聖典七祖篇』62頁)と示しておられます。「無縁」とは、仏教では「つながりがない」という意味ではなく、「…
質問です。名前しかわからない、全く見も知らぬ遠くの人へ手紙を届けなくてはなりません。何人を仲介すれば、目的の人に、その手紙は届くでしょうか? これは、アメリカで1960年代に実際に行われた実験です。1600キロ離れた土地に住むビジネスマンに、自分よ…
私たちには、さまざまな縁(原因)がはたらいています。そして、そのことを、知り尽くすことができません。今、ここで起きている事柄は、数え切れない無限の原因が積み重なった結果です。私たち人間の浅はかな考え方では、到底、理解し尽くすことができませ…
昨年の9月、東京都に「都民ファーストの会」という地域政党が設立されました。ここに使われている「ファースト」という言葉は、「〜が最初にある」「〜をまず第一に考える」「〜を最優先する」という意味合いで使われ、現在人気のある言葉になっています。そ…
今、いのちがあなたを生きている 真宗大谷派東本願寺 2011年に催された親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマ。私が自らのいのちを生きるのではなく、いのちが私を生きていると考えるよう呼びかけた。これにふれて思い出したのが、臨床心理学を専攻する友人の…
「法戦」というS会発行の本があります。S会が結成されてから15年後の昭和48年(1973年)に、親鸞聖人御生誕八百年記念として発刊されたものです。最近、この本を新たに読み返してみました。その中で特に印象的だったのは、当時私がS会で聞いていた信仰体験が…
浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑い無く受け容れた心」のことを言います。 例えば、赤ちゃんは、お母さんを信じて抱かれているのでしょうか。信じるとかいうことを越えて、まかせきっているのです。「お母さ…
私は、昭和五十五年(一九八〇年)から平成三年(一九九一年)にいたる十一年余の間に、実に二千四十六名にわたる葬儀を執り行わせていただきました。 その多くは葬儀社からの依頼によるものでしたが、ほとんど毎日が、通夜に葬儀という日々でした。 このこ…
今年の夏を振り返ってみますと、私の住む地方では、梅雨明けが平年より10日ほど遅れました。その上、梅雨明け宣言が出された後も、台風などの到来で曇り空の日が続き、ほとんど毎日雨が降り、蒸し暑くて、まるで再び梅雨空に戻ったような日々でした。カラッ…
御文章二帖目第十二通に、蓮如上人は、「それ、人間の五十年をかんがへみるに…… 」から始めて、人々が一巻の聖教を読むこともなく、怠惰に日々を過ごす様子を嘆かれ、「このゆえに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実…
次は、『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』第125(番目)の文です。 「ご病床にあった蓮如上人が、慶聞坊(きょうもんぼう)に『何か読んで聞かせてくれ』と仰せになったとき、慶聞坊は、『御文章をお読みいたしましょうか』と申し上げました。上人は、『…
先日、ある方から、「毎日お念仏申しているのに、ご信心を得たという確信がもてない」「信心決定した瞬間を感じることができるのか?」という率直な思いをぶつけられました。信心決定については、はっきりとその瞬間を認識する人がいるかもしれませんが、長…
覚如上人(本願寺第三代宗主)の詠まれた歌に次のような一首があります。 「今日ばかりおもうこころを忘るなよ さなきはいとどのぞみおおきに」(今日を限りの命だと思う心を忘れてはならないぞ。そうでないと、この世のことにますます欲が多くなるから)。 …
『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』には次のような蓮如上人の言葉があります。 (20)「今年から、信心のないものには会わないつもりである」 (44)「信心を得ていないものにはもう会わない。信心を得たものには呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう…
俳人小林一茶の歌に、「露ちるや地獄の種を今日もまく」という一首があります。昨今、「地獄の種を今日もまく」という言葉に、とても共感を覚えます。朝、目覚めたときから夜の就寝まで、考えてみますと悪い種しかまいていないなぁ、とつくづく思うのです。…
蝉と言えば、私の住む地域ではアブラ蝉が主流です。特に暑さの厳しいこの時期、多くが一斉にジーッと鳴くアブラ蝉の蝉時雨(せみしぐれ)には、一層暑さが増幅されるようで、比較的涼しい早朝のウオーキング中でもじわ〜っと汗が出てきます。 でも、ほんの10…
目先のことにとらわれ、先を見通すことなどできない私たちは、仏教の教えをとても軽く見ています。何を教えているのかを知らない人、間違った教えを身につけている人たちもずいぶんいます。 (略) この世をいかに快適に生きるかということには血眼になって…
法話のなかでは、「生老病死が四苦である」と、まるで教科書を読んでいるかのように話される方がおられます。四苦の解決こそ仏教の原点ですから、そこに切り込むことが必要でしょう。きれいごとだけでは人の心に響きません。 幸せな日常生活、問題なく日常生…
ここ数日中に、新聞の第一面を賑わした記事の一つは、九州北部を襲った豪雨について報じたものです。今までに経験したことのない数十年に一度の豪雨と言われ、その豪雨を引き起こす原因となったとされる、今までに聞いたことのない「線状降水帯」という気象…
「信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたである」と蓮如上人は『御一代記聞書』の中に仰っています。 その‘すがた’とは? 本願に疑心がない。 南無阿弥陀仏が聞こえている。 心に南無阿弥陀仏が満ちている。 大安堵感がある。等々…… 以上、私なりに味わって…
数日前の早朝、その日はとても霧の濃い日でした。いつも通り、いつもの公園(標高約60m)にウォーキングに出かけたのですが、公園全体がすっぽりと霧に覆われ、6〜7m先が見えないぐらいでした。突然ウォーキング中の人が、もやの中からボーッと現れるとい…