2021-01-01から1年間の記事一覧
日ごろのこころにては往生かなふべからず(歎異抄) 『歎異抄』を執筆した唯円は、当時広まっていた「罪を犯すたびに懺悔し、回心しなければ浄土へ往生できない」という教えを批判し、回心というものは生涯にたった一度だけだと述べました。その「一度」とは…
わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし(歎異抄) この言葉は、親鸞と唯円の対話によるものです。親鸞のいうことは必ず実行できるという唯円に対し、親鸞は「では私がいうなら、千人殺せますか」…
なごりおしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり(歎異抄) この言葉は120ページに続く一節です。「この世は捨てがたく、浄土に心惹かれない」と述べた後、「どんなに名残惜しくても、この世との縁が尽きれ…
きくといふは、本願を聞きて疑ふこころなきを「聞」といふなり(一念多念文意) 「阿弥陀さまの声(教え)を疑う心を持たずに聞くことこそ、〝聞”というのである」と親鸞はいいます。疑いのない素直な心で教えをいただくことができたとき、初めて真理にたど…
卯毛・羊毛のさきにいるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし (歎異抄) 私たちが発する些細な言葉や、ちょっとした振る舞いにもそれまでの生き方が表れています。初対面の人との会話の中にも、その人の普段の考えや経験を垣間見…
よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり(歎異抄) 私たちはよいことが起これば、有頂天になって喜びます。悪いことがあれば落ち込み、どうしようもない怒りを他人にぶつけてしまうこともあるでしょう。しかし、仏教においては、よいことも悪いことも…
善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ (親鸞聖人御消息) 「善知識」とは、よき友や、自分のことをよく知ってくれている人、教え導く人のこと、「同行」は同じ教えのもとに結ばれた仲間を指す言葉です。親鸞は善知識や同行とは親しみ、…
「他力本願」という言葉は日常的にもよく使われますが、本来は浄土仏教の根幹となる思想を表すもので、「阿弥陀さまの本願(他力)の力(によって救われる)」ということを意味します。 浄土仏教の根本経典である「無量寿経」には、「浄土に生まれたいと願っ…
善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや (歎異抄) 「善人でさえ浄土に往生できるのだから、まして悪人ならばいうまでもない」というこの言葉は、『歎異抄』の中でも最も有名なものの1つです。初めてこの言葉を聞く人は疑問を感じるかもしれませんが、…
親鸞は弟子一人ももたず候ふ (歎異抄) 親鸞には「歎異抄」の著者とされる唯円(ゆいえん)のほか、多くの弟子がいました。しかし、親鸞は「弟子は一人も持っていない」というのです。それは、仏さまの前ではどんな人も同じ道を歩む者であり、そこに優劣な…
正定(しょうじょう)の因はただ信心なり(正信偈) 私たちは「信心」というと「自分が起こすもの」「自分が強く心に思うもの」と捉えがちですが、他力の信心というのは阿弥陀さまからいただくものです。そのいただいた信心こそが、私たちを救ってくださると…
信心の定まるとき往生また定まるなり (末灯鈔) 『歎異抄』の最後の部分にこんなエピソードが記されています。親鸞は、師である法然の兄弟子の前で「自分の信心も法然さまの信心も同じである」といったのです。それに対し、兄弟子たちは反論しますが、親鸞…
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ(歎異抄) 親鸞は教えを乞いに来た人たちに向け、「たとえ法然聖人に騙されて、念仏して地獄に落ちてしまったとしても、後悔することはない」といいました。「他…
愚禿が心は、内は愚にして外(ほか)は賢なり (愚禿鈔) 親鸞は自らのことを「愚禿釈の親鸞」と証し、「私の内面は愚かで煩悩にまみれているにもかかわらず、外見は賢いかのように振る舞っている」と記しています。いくら外見を取り繕っても、煩悩は絶えず…
新しい能力がどんどん目覚めるとき ずいぶん、長い間、坐禅をしてきた。黙って、ただひたすら座る。 「なんの役に立つのか!」 先輩からも、友だちからも、ずいぶんバカにされた。が、坐禅をしてみればわかるが、坐って静かな時間を持つと、新しい能力に目覚…
仏の働きは、母親の働きと等しい 母のそばにいると、なぜか、安心した。気分が後ろ向きになっているときでも、母がそばにいると、ほっと、した。母は、私を育て守ってくれた。 自分を育ててくれる人、自分を守ってくれる人がいると、ウキウキして、生活の循…
「人のため」が「自分のため」になる 若いころ、「世のため、人のため」なんて、ちょっぴりも考えたことはない。 人からよく思われたい……という気持ちはあった。が、「人のため」は、なかった。 大学の卒論で、芭蕉と接したころから、自然が妙に心の中で踊り…
いのちをいただいている自覚はあるか 朝から晩まで、牛肉を食べたり、豚肉を食べたり、さんまやマグロを食べたり、野菜も含め、生きものを殺して平気で暮らしながら、自分は善人だと威張っている。 いわし一匹頂戴するにつけても、ああ、こうして、毎日、生…
悪を重ねないと生きていけなかった時代 親鸞の生きた鎌倉時代 ……。 武士たちは、相手かまわず、人と人が殺し合って生きた。 自分の夢は持てず、殺すか殺されるかのリスクの中で、生きるために、人を殺し、悪行を重ねた。自分の意志ではなく殺人を続けた。 母…
「すぐ隣」にたくさんの人たちがいる いつの日か、自分一人のさびしい世界に落ちた。 真っ暗で、つらくて、涙がこぼれそうになってしまう。 けっして、一人ぼっちではないのに....。まわりに、友が、たくさんいるのに....。 わたしたちは、あまりにも自分中…
玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)師の「成り行きを生きる」という言葉を聴いて、私は「結果を生きる」ということだと思いました。 とりもなおさず、「自覚」すること。自分は何者であるのか。朝夕のお参りの時、仏を鏡として自分を深く見つめ直す。そして、前…
花びらは散っても、花は散らない。人は去っても、面影は去らない(金子大榮)。短い歌だが、この言葉の深い意味に心うたれる。 きれいな花の美しさは絶対に消えたりはしない。人も寿命がくれば死んでしまう身ではあるが、お念仏の生活の中で、人生を精いっぱ…
2012年2月9日の「おくやみ欄」に、何度かお会いしていた、私より2歳年上の僧侶Sさんのご逝去(往生)が記載されていた。 「いのち、やはり有限なんだなあ」と実感させて頂いた。今、ペンを運んでいる私も、やがてこの「欄」の方々のお仲間になる。 現在、日…
「生老病死」は誰でも知っている言葉ですし、当たり前のことだと、皆、気にもせず生活しているようです。 「それ秋も去り春も去りて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ・・・・いたずらにくらして、老いのしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなし…
現今の日本の平均寿命は80歳にまで伸びています。しかし、人の寿命は一人ひとり違うことに気づかなければなりません。親鸞聖人の御和讃に次のようにあります。 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」 …
病んで横になっている父へ、母は仏法の話をしている。「愚痴」が出やすい状態の中で、「そうだったな」、また「そうだったな」と頷(うなず)いている父を見るにつけ、「いかに、罪業深くとも、念仏する者は必ず救われる」、親鸞聖人の尊い言葉であることが…
先日、線路で倒れていた男性を助けようとした40歳の女性が列車にはねられて亡くなった。この女性は、手を伸ばす時「大丈夫」とは思っていなかっただろうし、自分の命が危ないとも感じなかっただろう。計算や感情は無しに、ただ目の前の命を助けようとしただ…
死ぬときには死ぬ時の瞬間があり、生きている時も生きているときの瞬間しか生きられない。われわれは、生死を貫く永遠の生命をこの瞬間の中に把握しなければならないのです。 仏法、殊に浄土真宗ではこの一瞬を凡夫の智慧とは見ず、仏より賜った悟りの智慧と…
1948年、73歳でお亡くなりになった飛騨高山の中村久子さんは、突然性脱疽(だっそ)を患い、両手両足のないままのご生涯を深く生きられました。 中村久子さんが、口でお書きになった字や絵は、両手両足のある私達には及びも付かない立派なものでした。 お念…
「おいくつになりましたか」、「七十と二つになりました。毎日忙しく、お仏壇にもお寺にもお参りする暇がないんです」、「お元気でお仕事にがんばれることは、何よりもお幸せですね」、「日本人の平均寿命を八十歳としますと残すところ十年を割りますね」、…