2023-01-01から1年間の記事一覧
蓮如さまは、若い頃にたいへん苦労されたお方であった。ただ自分の生涯に親鸞さまの教えをみんなに伝えたいという念願一つで、素晴らしい成果をおあげになった。本当にご苦労なことでありました。 蓮如さまは、若い頃にたいへん苦労されたお方であったのです…
「私たちは、教えの一句、一言を聞く時も、必ず自分の都合のよいように聞いているものである。だからただ勝手な解釈をしないで、耳を澄ませて聞き、自分の受け止め方が正しいか間違っているかを、仲間たちと話し合って確かめるがよい」と、蓮如さまは教えら…
私たちは、教えを聞く時、いつもまわりの仲間たちが自分をどう思うか、ということばかり気遣うけれども、阿弥陀如来の眼が自分をどう捉えているかということには、無頓着である。道を求める者は、阿弥陀如来の眼の前に自分を置かなければならないと、書かれ…
蓮如さまは教えられた。「道を求めようとする者には、仏さまに何かしてあげようとする心が障りになる。これをして差し上げれば仏さまはさだめし喜んでくれるだろう、と思う心である。 南無阿弥陀仏の教えを聞く者は、全ての生活は、こんな素晴らしい阿弥陀如…
「世の人は、儲かるか損するかという生活の問題になると、真剣に細かい所まで気をつかうのに、一番大事な人生の問題になると、手抜きをしても何とも思わないようである。たった一度の人生なのだから道を求めるということには、油断なく構え、手抜きをしない…
法敬坊は教えられた。「世の人は、『私の前で面と向かって言わずに、陰でこそこそ人の悪口を言う』と言って、腹を立てる。だが私はそうは思わない。私の前で言いにくければ、陰にまわってでも私の悪いことを言ってくれ。私はそれを聞いて自分の姿勢を正そう…
蓮如さまは、時々教えられた。「人生の問題は、よくよく人に尋ねるがよい。わからないことは心して人に尋ねるがよい」と。そこで「いったいだれに聞くのですか」とお聞きすると、蓮如さまは、「仏教のお話しならば、大先生であろうと、無名の人であろうと、…
蓮如さまは、教えられた。「堺の大商人、日向井屋は、銭三十万貫も持つ大金持ちだったが、ついに亡くなった。だがあの人は、阿弥陀如来の広大な眼の世界に背を向けていたから、目覚めた人、仏にはなれない。それに比べて大和の国の了妙は、普段着にも不自由…
物事に飽きることがあっても、目覚めた人になることと、阿弥陀如来の明るい眼の働きにめぐりあう喜びは、飽きるということはあり得ない。どんなに焼き捨てようとしても、焼けない素晴らしい宝物は、南無阿弥陀仏である。だから広大な阿弥陀如来の眼の働きほ…
どんなことについても、素晴らしいことを思いつくのは、自分の力ではなくて、おかげさまである。自分の悪いことに気がつくのもまた、おかげさまである。悪いことを止め、善いことを取り入れる、どちらも、おかげさまだということを忘れてはならない。 【 現…
仲間たちが集まったときにだけ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と大きな声で称えて、有り難い有り難いと喜ぶ素振りをする人がいる。これは、自分を格好よく見せているだけである。本当に阿弥陀如来の明るい眼に巡りあった者は、一人だけのときにも喜びがこみ上…
山科本願寺の、南殿に面した御縁に腰掛けられて、蓮如さまは、「思っていたことと現実と全く違う、と、いうことの代表は、極楽浄土に生まれてみてのことである。迷いの世界にあって、極楽は有り難い所、尊い所と、思っているようなものは、たいしたことでは…
法敬坊に、ある人が、「あなたさまの教えをいただいてまいりましたが、いつも油断して、お聞きしたことが身につかないのが情けなくてたまりません」と、ふだん思っていることを打ち明けられた。すると法敬坊は、「そんなことを言ってはいけませんよ。それで…
人はともすれば、教えについて語るとき、自分だけがよくわかっていると、思い込んで、偉そうに語る。だが本当に阿弥陀如来の眼にめぐりあった者は、私はどうしようもない駄目人間だということがよくわかるから、ただこんな私でも生き生きとよみがえったこと…
どんな人でも、都合の悪いことに突き当たったとき、私が悪いのだ、と思う人は一人もいない。だがそれは、親鸞さまの教えに背を向けている人の姿なのである。こういうことに気がつかずに自分は悪くないんだと思っている人は、永遠に暗い地獄への旅を続けなけ…
蓮如さまは阿弥陀如来の生まれ変わりだ、と言われるが、その根拠はたくさん挙げることができる。そのことは、前にも記しておいた蓮如さまがお読みになった「かたみには六字の御名をのこしおく なからんあとの かたみともなれ(私の遺言として南無阿弥陀仏の…
同じように蓮如さまは、寺を預かる僧たちに教えられた。「坊主というものは大罪人だ」と。そこに集まっていた僧たちは、みんな「困ったことを言われる」と、迷惑そうな顔を見合わせるのだった。そのとき畳みかけるように蓮如さまは教えられた。「罪が深いと…
赤尾の道宗が、蓮如さまに「『御文』をいただきたい」と申し上げると、蓮如さまは、「書物は紛失することがあるから、心に阿弥陀如来の明るい眼をいただきなさい。絶対に紛失することがないから」と、言われた。だがそれでも蓮如さまは、道宗に、翌年もまた…
蓮如上人は教えられた。「『安心決定鈔』を四十年あまり拝読してきたが、どんなに繰り返し繰り返し拝読しても、もうこれでよいということはない」と。また、「黄金を掘り出したような有り難い教えだ」とも言われた。 【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』…
蓮如さまは教えられた。「私が、今すぐ死になさいと言えば、おそらく死ぬ人も出てくるに違いない。だが、毎日阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあいなさいと教えているけれども、そのように生きる人がいないのは悲しいことではないのか」と。 【 現代語訳 『 蓮…
「朝から晩までの私たちの生活のすべてが、阿弥陀如来、親鸞さまの教えによって、素晴らしい毎日によみがえるのだから、まわりのすべてのものに対して、何と有り難いことかと思う心を忘れないようにしたいものである」と蓮如さまは教えられた。 【 現代語訳 …
阿弥陀如来の明るい眼は、私たちを育てられる。育てるというのは、私たちの欲望に汚染された心を改めよなどと要求されることなく、広大な目覚めた心とのめぐりあいによって感化されるのである。決してわたしの汚染された心を取り替えて、目覚めた心で新しく…
蓮如上人は教えられた。「今日一日も無いと思え」と。そして何事も急いで実行に移された。いい加減に、だらだらと仕事をすることを嫌われたという。教えを聞く身となり、明日のことを今日やるように急ぐ人を褒めたたえられた。 【 現代語訳 『蓮如上人御一代…
実如さまは、教えられた。「蓮如さまからお聞きした教えは、ただ阿弥陀如来の明るい眼に頭が下がる、ということに他ならない。そのほかには何もないのだ。それ以外に何かあると思うのはとんでもない思い違いである」と。 【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞…
常識では、「南無阿弥陀仏と文字で記されてある本尊よりも絵像本尊、絵像本尊よりも彫刻された木像本尊の方が、ご利益がある」と思われている。浄土真宗では次のように言う。「木像本尊や絵像本尊は、南無阿弥陀仏にめぐり合うことができるように、私に与え…
慶聞坊は教えられた。「阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあわずに、欲望の眼で生活して行くと、間違いなく一日一日暗い地獄に向かって行く。その場だけのにせものの明るさは、今は明るくても、必ず暗くなる。外側だけ見ていると、ほんものとにせものは、一見似…
阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあったならば、道を求める仲間たちを言葉荒く罵(ののし)るなどということはありえない。心は和らいでくるはずだ。阿弥陀如来の眼には、めぐりあうものは心柔軟になるという働きがある。阿弥陀如来の眼に背を向けるならば、何…
蓮如さまは、善従に、掛け軸を与えられたことがあった。しばらくたってから、蓮如さまは善従に、「前に書いてあげたものをどうしたかな」と尋ねられた。善従は「表装して箱にいれ、大事にしまってあります」と答えた。すると蓮如さまは「それは宝の持ち腐れ…
蓮如さまがご病気のとき、教えられた。「私は何も思い残すことはない。私に都合の悪いことなど一つもないのだ。だから今、息絶えても、何も後悔しない。ただ子供たちや、まわりの人たちの中に、まだ阿弥陀如来の眼で生活していない者がいるのが悲しい。世間…
蓮如さまは、善従のことについて話された。「山科にまだ本願寺を建てるなどという話が起こる前に、善従が神無森(かんなもり)を通って近江へ向かうとき、乗っていたお籠から降りて、いまの山科本願寺の方を指差して、「このあたりに必ず仏法が繁盛するに違…