2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧
真実信心とは、人間の心によって成り立つのでなく、そんな私の実相をごまかしなく照らし出す光、つまり南無阿弥陀仏の大悲心への目覚めによってのみ、あたえられていく出来ごとであったことが知らされます。 【『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦 東本願…
私が憶念している至言が、いまも想起されます。それは、ある人が暁烏敏師に「念仏はどんな心で申したらよろしいか」と質問したときのこと。師の答えは「お念仏は、おならする要領や」、この一言だったのです。何とユーモラスな表現でしょうか。この一語にす…
ここで、いま一つ確認の意味で自問したいのです。それはズバリ言って、“親鸞聖人の申された念仏と、自分が申す念仏と同じと言えるのか?”ということです。違うと言うなら、なぜ違うのか。同じと言うなら、なぜ同じなのか。分別に生きている私どもからは、違…
念仏とは、「阿弥陀仏」の御名(みな)を称えることです。 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏の名であると同時に、仏それ自体を表しています。と言うのも、南無阿弥陀仏は言葉の仏であり、言葉以上のはたらき(本願)が言葉となった仏だからです。その点が、「南…
某新聞の「悩みの相談」コラムに、このような相談が寄せられていました。 「50代の女性です。私の悩みは、自分の考え方の傾向についてです。うまくいっている人を見ると、「彼(彼女)が失敗して不幸になったところを見たい」と考えてしまうのです。 幼いこ…
旅に病んだ庄松は籠に乗せられて、家に帰ってきた。「これで内へ這入ったから安心するがよい、弥陀のお慈悲を喜べ」といったら、庄松答えて曰く、「どこにいても、寝ているところが極楽の次の間だ」と。またある同行が見舞いに来て、「お前が死んだら墓を立…
「してあげる世界」から「させていただく世界」へ (東井義雄) (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<7月のことば>より 「してあげる」と考えますと、「自分の力でしてあげる」になり、「させていただく」と考えますと、「阿弥陀さまのお計ら…