お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

殺生しながら生きる他ない(There Is No Other Way to Live without Killing Other Lives)

  • いのちをいただいている自覚はあるか

 朝から晩まで、牛肉を食べたり、豚肉を食べたり、さんまやマグロを食べたり、野菜も含め、生きものを殺して平気で暮らしながら、自分は善人だと威張っている。

 いわし一匹頂戴するにつけても、ああ、こうして、毎日、生きものの生命のおかげさまで、生活しているのか! 毎食、動植物のいのちを殺して生きなくては、一日として生きられない。わたしが生きるには、殺生する悪人でなくてはならなかった。

 自分がふと、毎日頭で何を考えていたのかと、冷静に自分の心の奥底を見極めてみると、善人ぶって胸を張って傲慢ではいられなくなった。

 

 邪正もわかぬこの身なり (高僧和讃

 わたしは、謙虚なようでいて実は自我意識が強く、自分だけは正しい人だと思っていた。高慢な人の欠点は、反省心、内省心がない! 反省心がなくなると、背のびばかりして真実の世界がメチャクチャになって、現実の一断面しか見えなくなる。

   【 『心に響く 親鸞の言葉 』 境野勝悟  三笠書房  】

 

 ここに書かれていることは、すべて自分に当てはまります。せめて、無駄な殺生はしないように心がけたいと思いますが、その心に自惚れてしまい、当たり前のように殺生してしまう自分がいます。

 高僧和讃の「邪正もわかぬこの身なり(何が邪であり、何が正であるのか分からない)」という言葉は真実だと言えます。

 悪しかできない人間だからこそ、阿弥陀仏衆生を憐れみ、救わずにはおかないという本願を立てて下さったのです。どこまでもお慈悲の仏さまです。

十念して、極楽へゆく(With Ten Utterances One Will Be Born)

  • 悪を重ねないと生きていけなかった時代

 親鸞の生きた鎌倉時代 ……。

 武士たちは、相手かまわず、人と人が殺し合って生きた。

 自分の夢は持てず、殺すか殺されるかのリスクの中で、生きるために、人を殺し、悪行を重ねた。自分の意志ではなく殺人を続けた。

 母親となった女性たちも、子供を食べさせることができない戦いにつぐ戦乱!

 男は戦いに駆り立てられて、人殺しの毎日。女性は働く職もなく、一切の収入がない。多くの女性が、産んだ子供を、捨てた。川へ山へ ………。涙をのんで殺人!

 

一生悪をつくれども安養界にいたる教行信証

 悪を重ねないと生きていけない。親鸞は、大丈夫! 念仏を十念すれば、必ず安養界に行ける。否! 十念して安養界に生きるんだ!「死ねば極楽へ」は、危機に面して苦しむ大衆の生きがいの言葉となった。死後の極楽は、今日一日を明るくした。

  【 『こころに響く 親鸞の言葉』  境野 勝悟(かつのり) 三笠書房 】

 

 『教行信証』の、「一生悪をつくれども安養界にいたる」という言葉はとても頼もしいものです。ここで説かれている「十念の念仏」の意味を、『浄土真宗聖典』註釈版第二版の巻末註「じゅうねん{十念}」には、次のように書かれています。「善導大師、法然上人は十念を十声の称名念仏の意に限定したが、これは『観経』の下下品に、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」とあって十念の称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生できると説かれているのを根拠にしたためである」。

 「十念の念仏」イコール「浄土往生が定まること」ですね

決して一人ぼっちじゃない ( We Are Never Lonely)

  • 「すぐ隣」にたくさんの人たちがいる

 いつの日か、自分一人のさびしい世界に落ちた。

 真っ暗で、つらくて、涙がこぼれそうになってしまう。

 けっして、一人ぼっちではないのに....。まわりに、友が、たくさんいるのに....。

 わたしたちは、あまりにも自分中心すぎる心の闇に入って、視力を失う。

 闇から出るには、どうしたらいいか? 闇を敗れ!

 闇を破るには、どうしたらいいか? 光だ! 光だ! 光が心を照らせば、いい。

 

一々光明遍(いちいちこうみょうへんじょう)『観無量寿経

 心の闇に、光が、パッと輝く。何もかも、よく、広く見えてくる。一人ぼっちだと思っていたのは勘違い。すぐ隣に、たくさんの人がちゃんと生きている。その姿が、光で見えた、「一々」、つまり、人間一人ひとりに、光明がふりそそいでいる。親鸞は、毎日、光にあたって生きている自分を喜べ! と説く。

【『こころに響く 親鸞の言葉』 境野勝悟(さかいの・かつのり)三笠書房 】 

 

 私たちが生きてゆくには、一人ぼっち、つまり、孤独の人生はとても寂しいものです。しかし、ここで言われていることは、自分中心すぎるから、そう感ずるのであって、周りを見れば、友がたくさんいることに気づくのだと。即ち、心の闇に光が届いて、その光で周りの人たちが見えるのだといわれます。

 阿弥陀仏の光明は、常に私たち一人ひとりに降り注いでいることの証(あかし)ですね。

自灯明・法灯明(One’s Own Light ・ Buddha–dharma Light )

 玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)師の「成り行きを生きる」という言葉を聴いて、私は「結果を生きる」ということだと思いました。

 とりもなおさず、「自覚」すること。自分は何者であるのか。朝夕のお参りの時、仏を鏡として自分を深く見つめ直す。そして、前に一歩踏み出す。

お釈迦様が亡くなるときおっしゃった「自灯明、法灯明」を頼りにしながら。富山市 真宗大谷派正願寺坊守 永井易子)

      【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社   】

 

 「自灯明・法灯明」[仏] よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること。涅槃経によれば、釈迦入滅時の最後の教え。『広辞苑

 このように、「自灯明」とは、自らを頼りとして、他を頼りとしないこと、「法灯明」とは、法を頼りとして、他のものを拠りどころとしないことです。

 このことは、自分をともしびとし、拠りどころとするだけでなく、この自分を支えてくれるものは法であり、真実の教えであることを示しています。

 筆者であられる坊守の永井師は、このことをしっかり踏まえて進んでおられます。見習いたいと思います。

人は去っても面影は去らない(Even If a Person Leaves, the One’s Image Doesn’t Leave)

 花びらは散っても、花は散らない。人は去っても、面影は去らない(金子大榮)。短い歌だが、この言葉の深い意味に心うたれる

 きれいな花の美しさは絶対に消えたりはしない。人も寿命がくれば死んでしまう身ではあるが、お念仏の生活の中で、人生を精いっぱい生きた、そのあかしとしての面影は消えずに、いつまでも私たちの心に残る。 (南砺市 真宗大谷派随順寺住職 黒川紘紀)

      【 明日をひらく 『 一期一話  』  北國新聞社  】

 

 花びらは散っても、花びらの美しさは心に残るように、人は死んでも、その人の面影は心に残ります。私自身に当てはめてみましても、身内を初め多くの縁のある人たちを亡くしてきました。でも、その人たちの面影は消えることはありません。俱会一処と言われますように、今生で仏法を聞き開き、浄土で会える身になっていたいですね

浄土に往生するという一大事(The Serious Matter of the Birth in the Pure Land)

 2012年2月9日の「おくやみ欄」に、何度かお会いしていた、私より2歳年上の僧侶Sさんのご逝去(往生)が記載されていた。

 「いのち、やはり有限なんだなあ」と実感させて頂いた。今、ペンを運んでいる私も、やがてこの「欄」の方々のお仲間になる。

 現在、日本人の平均寿命を日数にすると、およそ3万日余りである。私は今までに約2万8400日を過ごさせて頂いた。残る日数はあと約1600日間である。それも、その保証は全くない。

 「M(私)よ、一度だけの人生、その方向決定ができたか?」「急げ急げ」。

 仏教、ことに浄土真宗の教えに「後生の一大事」とか、「平生業成(へいぜいごうじょう)」ということがある。後生というと、利口な人は、来世、死後の話かと割り切ってしまう。そうではない。平生(今日、ただ今)において、往生するという一大事が決定する。ここから、いのちが輝き、一日が輝いてくるのである。合掌。 (川北町 真宗大谷派浄秀寺前住職 藤原正洋)

      【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社  】

 

 「後生の一大事」;生死(しょうじ)の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事。(浄土真宗聖典 註釈版第二版)

 「平生業成」;臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心を得たその時に浄土往生が確定すること。(出典は 同上)

 「後生の一大事」、「平生業成」、と言われるように、臨終を待つまでもなく、(今日、ただ今)平生において往生するという一大事が決定することを、浄土真宗では教えています。筆者の言われるように、「いのちが輝き、一日が輝いてくる」のですね。

充実した人生を送る( Lead a Full Life ) 

 「生老病死」は誰でも知っている言葉ですし、当たり前のことだと、皆、気にもせず生活しているようです。

「それ秋も去り春も去りて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ・・・・いたずらにくらして、老いのしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。・・・・」

 蓮如上人の御文の四帖目第四通にあります。

 私も80歳を過ぎて、御文をいただき何をしたかを問いただしてみても、空しさだけが返ってきます。少しでも充実したときを過ごすよう、一日一日を大切に生きたいと思っています。 ( 七尾市 真宗大谷派光圓寺住職 長澤豊麿)

     【  明日をひらく 『 一期一話 』  北國新聞社  】

 

 上記、四帖目四通の後に続いて書かれている言葉は次のようです。・・・・「ここに未来悪世の我等ごときの衆生を、容易(たやす)く助けたまう阿弥陀如来の本願のましますと聞けば、まことに頼もしく有難くも思いはんべるなり。この本願をただ一念無疑に至心帰命したてまつれば、煩いもなく、その時臨終せば往生治定(おうじょうじじょう)すべし」

 充実した時を過ごす、あるいは充実した人生を送るには、阿弥陀如来の本願を一念無疑に至心帰命することだと言われます。自力で頑張っても詮無(せんな)いことなのですね。

大往生 ( A Peaceful Death )

 現今の日本の平均寿命は80歳にまで伸びています。しかし、人の寿命は一人ひとり違うことに気づかなければなりません。親鸞聖人の御和讃に次のようにあります。

 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき

  功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」

 ただ長生きしたから大往生ではありません。いかに悔いのない人生を、お念仏の人生を歩んだかによってお浄土参り正定聚(しょうじょうじゅ)という位が定まるのであります。(富山県 浄土真宗本願寺派長年寺住職 志田常無)

     【 明日をひらく 『 一期一話 』 北國新聞社  】

 

 世間では、元気に100歳以上までも生きて亡くなる人などは大往生したと讃嘆されることが多いですが、ただ長生きしたからといって大往生ではないのです。本願力にあって、正定聚の位に定まった人が真の大往生した人だと言われます。

仏道に帰依する ( To Embrace in the Buddha- way )

 病んで横になっている父へ、母は仏法の話をしている。「愚痴」が出やすい状態の中で、「そうだったな」、また「そうだったな」と頷(うなず)いている父を見るにつけ、「いかに、罪業深くとも、念仏する者は必ず救われる」親鸞聖人の尊い言葉であることが知らされる。

 死に方が良かろうが、悪かろうが、そんなことは問題ではないのです。帰依するものがあるかどうか、が問題なのです。魚津市 浄土真宗本願寺派照顕寺前住職 故・眞門孝文)

    【  明日をひらく 『 一期一話  』   北國新聞社   】

 

 仏法では、臨終における死に方の良し悪しを問題にしません。帰依するものがあるかどうか、つまり、仏道に帰依すること(仏を信仰して、その威徳に一任すること)が大事だと教えられます。

無縁の慈悲( The Irrelevant Mercy )

 先日、線路で倒れていた男性を助けようとした40歳の女性が列車にはねられて亡くなった。この女性は、手を伸ばす時「大丈夫」とは思っていなかっただろうし、自分の命が危ないとも感じなかっただろう。計算や感情は無しに、ただ目の前の命を助けようとしただけだろう。如来の無縁の慈悲を思う。親鸞聖人は「少慈少悲もなき身」と言われる。あらためて自分を省みて、御仏の教を聞いていこう。 (滑川市 中央仏教学院通信教育同窓会富山支部会員 樋口治美)

     【 明日をひらく『 一期一話 』  北國新聞社  】 

 

 無縁の慈悲;あまねく一切衆生に、苦を抜き楽を与えようとする仏の大慈悲『広辞苑』。

  筆者が言われるように、男性を助けようとしたその時の女性の感情には、自身の損得を計算して助けるという思いは一切なかったでしょう。例え無縁の人であれ、有縁の人であれ。

 仏さまの慈悲は、無関係の(無縁の)人も、縁のある人も、全ての人を助けるという大慈悲なのです。「如来の無縁の慈悲を思う」、という言葉に、ただ感謝の気持ちが湧いてきます。