ブログ「お慈悲のままに」を読んでいただきましてありがとうございます。
昨年9月8日を最後に更新が滞っています。今後の更新は難しい環境です。当ブログの管理者(ミーコ)におきましては、日々、元気に過ごしております。ご安心ください。これからも、10年以上綴った彼女の南無阿弥陀仏に対するアプローチを楽しんでいただけましたらうれしいです。趣味の英語を交えながらの投稿はとても新鮮です。わたしも時々読み返したい、と思っています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
手品師
蓮如さまは、教えられた。「堺の大商人、日向井屋は、銭三十万貫も持つ大金持ちだったが、ついに亡くなった。だがあの人は、阿弥陀如来の広大な眼の世界に背を向けていたから、目覚めた人、仏にはなれない。それに比べて大和の国の了妙は、普段着にも不自由する貧しい身であったが、明るい眼を頂いていたから、間違いなく仏に成る」と。
( 現代語訳) 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館
堺の大商人と言われる日向屋は、大金持ちだったがついに亡くなったと書かれています。その背景には広大な眼の世界に背を向けていたから、目覚めた人、仏にはなれない。この裏返しとして大和の国の了妙という人は明るい眼をいただいていたから、間違いなく仏に成る旨書かれています。明るい眼、つまり信心を頂いているかどうかが大切なところです。
物事に飽きることがあっても、目覚めた人になることと、阿弥陀如来の明るい眼の働きにめぐりあう喜びは、飽きるということはあり得ない。どんなに焼き捨てようとしても、焼けない素晴らしい宝物は、南無阿弥陀仏である。だから広大な阿弥陀如来の眼の働きほど優れたものはない。その働きを見に受けた人を見るだけでも尊く思われる。本当に素晴らしい事だと思う。
【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英 法蔵館 】
目覚めた人になることと、阿弥陀如来の明るい眼の働きにめぐりあう喜びには、飽きるということはあり得ないのです。どんなに焼き捨てようとしても、焼けない素晴らしい宝物は南無阿弥陀仏である、と教えられています。これほどすばらしい表現があったでしょうか。ですから、広大な阿弥陀如来の眼の働きほど優れたものはないのであると言われるのです。