お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

片付けてはいけない (We Don't Keep up the Hanging Scroll )

 蓮如さまは、善従に、掛け軸を与えられたことがあった。しばらくたってから、蓮如さまは善従に、「前に書いてあげたものをどうしたかな」と尋ねられた。善従は「表装して箱にいれ、大事にしまってあります」と答えた。すると蓮如さまは「それは宝の持ち腐れだ。いつも見えるところに掛けておいて、その言葉のように生活せよ、ということだったのに」と、残念そうに教えられるのだった。

  【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』  高松信英  法蔵館 】

 

 とかく、大切なものは、大事すぎて見えるところには掛けたり、置いたりしないものです。蓮如上人の言われるように、宝の持ち腐れになると言われても仕方ありません。自分自身も気をつけなければならないと反省しています。

 

 

願いに生きる ( We live for the Wish )

 蓮如さまがご病気のとき、教えられた。「私は何も思い残すことはない。私に都合の悪いことなど一つもないのだ。だから今、息絶えても、何も後悔しない。ただ子供たちや、まわりの人たちの中に、まだ阿弥陀如来の眼で生活していない者がいるのが悲しい。世間には、この世に思い残すことがあれば、死後の黄泉の国への旅の障害になる、という言葉があるが、私にはそのような恐れは少しもない。ただ残る人たちが、阿弥陀如来の明るい眼と無縁になることだけが悲しいのだ」と。

   【 現代語訳『 蓮如上人御一代記聞書 』  高松信英  法蔵館  】

 

 蓮如上人は、ひとえに、まだ救われていない人達が、阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことを願っておられます。また、蓮如上人が、阿弥陀如来の明るい眼と無縁になることだけが悲しいという、つまり、悲しみを避(さ)けたいという心からの願いが伝わってくるようです。

 願い (The Wish )

 蓮如さまは、善従のことについて話された。「山科にまだ本願寺を建てるなどという話が起こる前に、善従が神無森(かんなもり)を通って近江へ向かうとき、乗っていたお籠から降りて、いまの山科本願寺の方を指差して、「このあたりに必ず仏法が繁盛するに違いない」と言われた。同行した人々は、「善従さんは、年を取って頭がおかしくなったのではないか、」などと言い合っていたが、このように御坊も完成し、仏法の里になった。不思議なことである」と。また蓮如さまは、「善従は法然さまの生まれ変わりだ、と、世の人々は噂していますよ」とも言われた。善従は、八月二十五日に往生された。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】 

  善従には、山科本願寺のあたりに必ず仏法が繁盛するに違いないという、先見の明を見抜く見識があったのだと思われます。また、蓮如上人は善従は法然上人の生まれ変わりであることも、そのように受け止めておられたのでしょう。仏法の信奉者は、教理を信じ尊ばれるのです。見習う点がたくさんあります。

 

 

単純明快に説け ( Explain Things Simply and Clearly )

 たとい正しいことを述べる場合でも、面倒な理屈を述べるのはよくない。ましてやまわりくどい世間話を交えることは差し控えなければならい。いよいよ盛んに述べなければならないのは、阿弥陀如来の明るい眼に導くことである。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館 】

 

 一番大事なことは、単純明快に説いて阿弥陀如来の(明るい眼に)救われるように人々を導くことなのです。理屈や世間話を交える事は控えなければならないのは言うまでもないですね。

いつも初めてのように (We Should be Always Take as if It's First Thing)

 阿弥陀如来の明るい眼に頭が下がったものは、何度、同じ南無阿弥陀仏の教えを聞いても、初めて聞いたような感動を覚えるものである。私たちはともすれば長い間教えを聞いていると、みんな当たり前になってしまって、もっと珍しいことはないか、変わったことないか、という聞き方になる。これはまだ目覚めた心にめぐりあっていない証拠である。同じことを何度聞いても初めてのように受け止めたいものである。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 阿弥陀如来に救われている人は仏法を聞いて、初めて聞いたような感動を覚えるもの  である、と言われます。しかし、いい加減な聞き方を長い間している人は、まだ救われていないことになります。同じことを何度聞いても初めてのように受け止めることができる人が救われていることになります。

拒食症ではないか、偏食していないか (Do We not Suffer from Anorexia, or not Have Unbalanced Diet?)

 どんなに珍しい御馳走を揃えて、客人をもてなしても、その御馳走を食べてくれなければ何にもならない。それと同じように、道を求める仲間たちが集まって、教えを聞いても、阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあう人がいなければ、すべてが無駄になってしまう。目の前の御馳走を食べないのと同じだ。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 たとえば、拒食症の人や、偏食をしている人は、差し出された御馳走を食べることは無理でしょう。同様に仏教の教えを聞いても、明るい眼にめぐり会わなければ、「救われない」のと同じです。目の前の御馳走を食べずに終わるのは、残念なことに相違ありません。

嫌なことが修行 ( What Is Disliking to Us Is Training )

 「他人の欠点はよく目につくものである。だが自分のことになるとさっぱりわかっていないではないか。もし自分の悪いことに気がついたならば、これはよくよく悪いからこそ気がついたのだと思って、心を改めるがよい。いつもまわりの人の言うことには、謙虚に耳を傾けるがよい。自分では自分の姿は何一つよくわかっていないものだから」と蓮如さまは教えられた。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 自分のことは、よくよく分からないものです。うぬぼれが心が強いからだとも思わfれます。謙虚に自身のことに対して、周りの人の意見にも耳を傾けることが大切だと教示されています。そのための大事な修行だと言ってもいいでしょう。

逆境も大事なご縁(Adversity Is Also Important Ties)

 南無阿弥陀仏の教えをいただく者は、どんな悲しいことに出会っても、どんな都合の悪い境遇にあっても、それは素晴らしい阿弥陀如来の眼をいただく大事なご縁なのだ、ということをわすれないように。常に阿弥陀如来の明るい眼の働きを喜ぶ人になりたいものである。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 この世に生きている限り、順境ばかりあるはずがありません。むしろ逆境の方が多いのではないでしょうか。逆境も大事なご縁であることは違いありません。ここに書かれているように、逆境は阿弥陀如来の眼をいただく大事なご縁となるのだと教えられています。そのご縁を大事にして、阿弥陀如来に救われる身になりたいものです。

宝物か、凶器か( Treasure or Weapon )

 阿弥陀如来の明るい眼がわかっていない人が、南無阿弥陀仏の教えを振りまわすことは、幼児が鋭い包丁を持っているのと同じである。なぜならば、包丁は便利なものであるが、幼い子供が持てば、手を切り、けがをしやすい。働きをよく知っている人だけが、その素晴らしさを味わうことができるのである。

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』  高松信英  法蔵館  】

 

 阿弥陀如来の明るい眼が分かっていない人は、気をつけないといけませんね。明るい眼がわかっている人だけが、その素晴らしさを味わうことができるからであると言われるからです。

 しっかりと教えを聞きぬき、宝物にしたいものです。

教える喜び ( Delight to Teach Buddhism )

 人に南無阿弥陀仏のお話しをして、相手が喜んでくれるならば、その喜ぶ人以上に自分自身が、有り難く尊く思うがよい。自分が偉くて人に教えたのではなく、阿弥陀如来の明るい眼の働きで喜ぶ人が現れたのだと、阿弥陀如来の働きを有り難く思うがよい

   【 現代語訳 『 蓮如上人御一代記聞書 』 高松信英  法蔵館  】

 

 仏法の話をして相手が喜んでくれるなら、それはとても有り難いことです。阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)とめぐり会うことで救われるからです。すべて、阿弥陀さまのお計らいです。