お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

思い通りにしようとしない ( Don’t Want to Have One’s Own Way )

  人の世にあるとき、求むる所、意の如くならず  /  源信

 どれだけ頑張っても、成功するとは限りません。それどころか、他人の上前をはねるだけの人間が、大きな顔をしていることもあります。どんなに求めても、独りになることもあります。それがこの世の現実です。源信は往生要集のなかで「人間はこの世にあっては、何を求めようとも思い通りにはいかない」と言います。

 この世で暮らす私たちは、満員電車に乗っているようなものです。

 窮屈だからといって電車のなかで身体を伸ばそうとすると、ますます苦しくなります。しかし、「満員だから仕方ない」と、それぞれが身体を伸ばすのをやめれば、少しは乗り心地もよくなります。

 老後についても同じです。「どうして昔と同じことができないんだ」と自分を責めてしまうと、つらくなるばかりです。自分に対しても、許しの心で接してみる、うまくいかなくて当たり前なんだと考えてみる。そう考えているうちに、心に浄土が現れるのです。

         【 『 老いを生きる 仏教の言葉100  』 】

 

 源信は「人間はこの世にあっては、何を求めようとも思い通りにはいかない」と言っていますが、源信に限らず、このように思っている人がほとんどではないでしょうか。

 そうであるなら、「思い通りにしようとしないこと」、つまり「うまくいかないことが当たり前だと考えてみること」が、心を軽くして、穏やかになれる方法だと教えられます。「うまくいかないことが当たり前だと考える」という発想がいいですね。

 人の世にあるとき、求むる所、意の如くならず ( In this world, people can not want

to have their own ways.)

もともとみんな、ひとりなんだ ( Everyone Is Originally Alone )

   生ぜしもひとりなり。死するも独りなり  /  一遍

 生れてきたのもひとりであれば、死んでいくのもひとり。もとより人はひとりなのだ。それがこの言葉の示すところです。

 どうもひとりの老後というと、どこか後ろ向きな印象がつきまといがちです。しかし、身近な身体で自由を謳歌する時間もまた、ひとりの老後の側面であることを忘れてはなりません。

 もしかすると、周りと自分を比べては「自分はひとりだ」と思うこともあるかもしれません。

 しかし、いずれは誰も皆ひとりになります。人よりも早いか遅いか違いだけなのです。その視点に立つと、いままで考えていたものとは違う「ひとりの老後」が浮かび上がってきます。

 孤独と向き合って、孤独を生きる。不安と向き合って生きる。喜びと向き合って、喜びを生きる。それが私たちの人生です。

        【 『老いを生きる 仏教の言葉100』  】

 

 上記からは、「独生 独死 独去 独来(どくしょう どくし どっこ どくらい)」という言葉が思い浮かびます。『仏説無量寿経』の中で説かれている言葉で、意味は次のようです。「人、世間愛欲のなかにありて独(ひと)り生まれ独(ひと)り死し、独り去(さ)り独り来(きた)る。行(ぎょう)に当(あた)りて苦楽の地(じ)に至り趣(おもむ)く。身(み)みずからこれを当(う)くるに、代(かわ)るものあることなし」

 なお、上文の「行に当りて苦楽の地に至り・・・以下の部分の意味は「自己のなす善悪の行業に従って、その苦楽の果報を得る」ということです。

 人生、楽しみも苦しみも半々くらいである、とよく聞きますが、果たしてそうでしょうか。お釈迦さまの「独生 独死 独去 独来」の説法からは、詰まる所、人生は底なしの孤独、寂しい所であることがひしひしと感じられます。

 この現実を回避する道、阿弥陀仏の本願があって良かった~ と、心の底から思います。

 生ぜしもひとりなり 死するも独りなり (Everyone is also born lonely and also dies

lonely.)

巡り合わせが気持ちをつくる ( Luck Makes Our Feelings )

   心は万境(まんきょう)に随(したが)って転ず景徳伝燈録

 悲しいことがあると、心は悲しみで満たされます。だからといって、心の本質は悲しみではありません。一方、喜びを感じると、心は喜びで一杯になります。しかし、これも本質ではありません。

 喜びも悲しみも、万境によって心が姿を変えただけ。つまり、私たちの気持ちとは、縁によって変化していくものです。そんな心のありようを、この言葉は意味しています、

 喜びの時間が続かないのと同じように、悲しみや苦しみも長くは続きません。それまでの間、自分で抱えきれない悩みは仏さまにお預けして、自分は自分にできることをする。悩みで心が一杯になってしまったときには、まずそう考えてみましょう。やがて時がめぐれば、悲しみは思い出に変わっています。

 自分の心も、相手の心も、時の巡り合わせによって変わっていきます。それを知っておくことが、苦悩と付き合っていくヒントになります。

         【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 】

 

 上記の内容からは、「縁」が私たちの生き方に大きく関わっていることがわかります。その「縁」について、『注釈版 浄土真宗聖典』[因果] (P.1447)の意味の中で詳しく書かれていますので参照します。

 「因果:物事が起る原因となるものを因といい、それによって引き起された結果を果という。ただし、仏教では、物事が起る原因には、果を生じさせる直接原因である因と、因を助成する間接原因である縁があるとし、因果という時の因は、因と縁とを含めているのである。この因(因縁)と果とを合わせて因果という。因縁果(いんねんか)の略称

 最終段落「自分の心も…………………………ヒントになります」の言葉は、苦悩との付き合い方の良きアドバイスになりました。

  心は万境に随って転ず ( Mind changes according to various circumstances. )

世間の声にまどわされない ( Don’t Be Deluded by the Voices of the World )

   世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)聖徳太子

 「老後には〇千万円は最低必要」

 雑誌を見ていると、ときおりそんな記事を見かけることがあります。もちろんお金を貯めることができるなら、それもいいでしょう。しかしちょっと待ってください。「安心な老後のために、もっとお金を貯めなければ」と私たちを働かせて、一番得をするのは誰ですか?

 私たちは老いること、病気になること、死ぬことから逃れることはできません。どんなお金持ちにもそれは不可能です。それを老後の蓄えにと無理をして、いまこの瞬間の生活がとげとげしくなってしまったり、身体をこわしてしまうなら、何のための蓄えでしょうか。

 世間の理屈に流されて、自分をすり減らしていませんか。

 世間なんてしょせん虚仮(かりそめ)のものにすぎません。お金も健康も執着してしまうと、それは不安に変わります。これからを楽しむためにも、世間なんて捨ててしまったほうがいいのです。     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 】

 

 聖徳太子は、「世間虚仮 唯仏是真」という言葉を残しました。その意味は「現象世界は仮のもので、ただ仏の世界のみが真実である」『広辞苑』ということです。

 虚仮(かりそめ)とは、はかない一時の事ですので、現象世界(この世)は、はかない「幻の世」です。

 因みに聖徳太子は、深く仏教に帰依し、仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立した方でした。「世間はしょせん虚仮のものにすぎない」ことを知らされ、「仏の世界のみが真実である」と、説かれたのです。

 世間の声にまどわされないようにしましょう。( Let’s not be deluded by the voices of

the world. )

 願わくは、誰もが仏の声(話)に耳を傾けてほしいものです。

人生の本質は単純である

   世の中は食うて稼いで寝て起きて

   さてそのあとは死ぬるばかりぞ  /  一休

 私たちは誰一人として同じ存在ではありません。だからといって、その人の価値が違うわけではありません。金持ちであろうが、貧乏人であろうが、つまるところ人生は「食べて稼いで寝て起きて、さてその後は死ぬだけ」だからです。

 確かにお金があれば、最新の医療を受けることもできます。しかし、いずれは死ぬのです。

 どんな人の毎日も、構造としてはみんなと同じ。いずれはみんな死んでしまう。それが肝に落ちるなら、他人をうらやみ自分を否定しそうになる気持ちも少しは軽くなります。他人の人生なんてどうでもいいのです。

 それよりも、私たちは自分の人生を生きましょう。

 「おい、いい夫婦だったなあ」

 徳川夢声は、死の直前にそう言ったといいます。最後にそう言える人生を送りたいものです。        【 『老いを生きる 仏教の言葉100』  】

 

 「おい、いい夫婦だったなあ」と最後の言葉を残して去った徳川夢声の人生は、いい人生だったと言えるでしょう。

 でも、仏教の立場からしますと、この世に生を受けて、聞き難い仏教を聞き、阿弥陀仏の本願を聞きぬいた人達こそ、最も「いい人生だった」と言えると思います。

 ※ 世の中は食うて稼いで寝て起きて、さてそのあとは死ぬるばかりぞ。(The world is the place where we eat, make money, sleep, get up, and after that we only die. )

明日も、昨日も関係ない

    ただ今日なすべきことを熱心になせ  /  釈迦

 アリとキリギリスの話を「キリギリスになるな」と受け取られる方は多いようです。しかし本当にそうでしょうか

 キリギリスはやりたいことをやり尽くして死にました。いわば大往生です。対してアリはあまり楽しくなさそうです。いまを犠牲にして、明日のために苦労を重ねているように見えるのです。

 「過去を追うな、未来を願うな

 と釈迦は言います。どれだけ頑張っても、明日をどうにかするなんて、だれにもできません。ですから、キリギリスの態度こそが正解なのです(もっとも、努力するアリを馬鹿にする態度は絶対的に間違っていますが)。

 アリに足りなかったのは、キリギリスのように努力することです。明日のためだからといって、今日に無理をしない。努力そのものを楽しみにする。それこそが、アリが熱心にすべきことです。

 キリギリスの目で人生を見ることが、老後を楽しくさせてくれるのです。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 上記から、アリとキリギリスのそれぞれの特徴をまとめてみます。

 アリ:① 今日を犠牲にして明日のために努力する。

    ② 今日より未来のことを考える。

 キリギリス: ① 今日だけの努力をする。

        ② 今日だけのことを考えて、無理をしないように努力する。

 以上より、お釈迦さまの「ただ今日なすべきことを熱心になせ」の言葉に叶うのはキリギリスです。キリギリスの目線で人生を見るようにしましょう

明日も今日も関係ない(We are never concerned with both tomorrow and yesterday.)

ただ今日なすべきことを熱心になせ( Only do eagerly what you should do today.)

すべてはチャンスと考える ( Think Everything Is Our Chance )

     流刑さらにうらみとすべからず 法然

 世間的な価値観からすれば、お金がないのは不幸なことかもしれません。

 しかし、お金にまつわるやっかいごとから自由になれるという意味では、必ずしも悪いことではありません。そう考えることもできます。つまり人生の幸不幸は、どんな物差しで見るかによって、大きく変わってくるともいえるでしょう。

 七五歳の法然を襲ったのは土佐(実際には讃岐)への流刑でした。この年齢になってなぜこんな目に、と普通なら思うところですが、法然は「これも地方に念仏を広めるいい機会だ」と誰かを怨むこともなく、いまを生きることに徹しました。

 もちろん、誰にでもできることではありません。

 ただ、視点を変えることを知っておくだけでも、老いの時間は変わっていきます。逆境は「世間の常識」から抜け出すことで、恵みの時間へと変わってくれるのです。

      【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 75歳にして、讃岐へ流刑に処せられた法然上人でしたが、誰を怨むことなく「地方に念仏を広めるいい機会だ」と捉えられました。

 逆境にあっても、視点を変えること、つまり、「すべてはチャンスと考える」ことの大切さを身を以て実践されたのです。

「流刑さらにうらみとすべからず( I should never have a grudge against being exiled.)」

遊べ、遊べ、ただ遊べ ( Play, Play, Only Play )

    遊戯三昧(ゆげざんまい)/  無門関禅宗の仏書)

 のんびりとして、どんなことに対してもとらわれない、そんな自由な心持ちで行われる行動が遊戯です。仏や菩薩は、この遊戯の境地をもって、私たちを救うべく活動をされています。

 世間では、遊ぶというとあまりいい意味で受け取られません。「もっと働け、怠けるな」と、悪いことでもしているような言われようです。しかし遊戯は、生きづらいこの世を生きるために大切な考え方でもあります。

 人生にはどれだけ頑張っても、うまくいかないことはあります。なんだか私の人生は、貧乏くじを引いたようなものだ。そう感じる方もいらっしゃるでしょう。

 そんなときに「私はいま貧乏くじを引く役をしているんだ。遊んでいるんだ」と考えることができたら、少しは心も軽くなるかもしれません。しょせん、この世は仮の宿り。そう考えて、自分という役を遊戯の心持ちで楽しむと、景色も違って見えてきます。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 遊戯の意味は上記に書かれていますが、更に『広辞苑』からも引きます。「遊戯;① 遊び楽しむこと ② 楽しく思うこと ③ [仏] 心にまかせて自在にふるまうこと」また、「遊戯三昧」とは「遊戯にふける(専心する)こと」とあります。

 仏や菩薩方は、衆生の教化、救済をみずからの楽しみとして行動しておられることが窺われます。

 「自分という役を遊戯の心持ちで楽しみたい」ものです。

人生100年時代の現実

 朝日新聞オピニオン欄、「人生100年時代の現実」で福家孝さん(医師・ジャーナリスト)が次のように話されていました。「ずっと元気でいて、あまり苦しまずに亡くなる『ピンピンコロリ』が理想ですが、残念ながらめったにいません。病気やけがにより不自由な体で生きる期間が平均して男性で9年、女性で12年ほどあるのが実情です。感染病などで、若死にする人が減り、寿命が延びても、がんなど加齢が大きな原因となる病気が残りました。がんの先には認知症が待ち構えており。80代後半で約4割、90歳だと約6割が発症します」

 (この記事は、今年前半ごろのものです。日付が曖昧で申し訳ありません)

 ここで言われていることは、現代の「人生100年時代」という言葉には、前向きな響きがあり「ピンピンコロリ」が理想ですが、残念ながらそのような人はめったにいないということです。

 手品師さんの< 2020・10・3 > のブログ「人生100年時代?!」には、「日本の総人口(1億2,581万人)の中で、100歳以上(約4,2万人)の割合は、0.03%とかなり少ない結果です」と書かれています。

 「理想と現実には大きなギャップがありますね。( We have a great gap between our

ideal and reality, haven’t we? )

 人生100年時代の現実 ( the reality of life in the 100 years era )

参照https://tarou310.hatenablog.com/archive/2020/10/03

                     (人生100年時代?!)

 

無常の風 ( The Wind of Permanence )

 『御文章』五帖第十六通の「白骨の章」には、次のような一節があります。「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば紅顔むなしく変じて桃季(とうり)の装いを失いぬるときは、六親(ろくしん)・眷属(けんぞく)集まりて嘆き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」

 つい先日、隣家の奥さん(Aさん)が亡くなられました。50歳を少し過ぎたAさんは、とても元気そうな方でしたが、脳梗塞であっという間に旅立たれてしまったのです。

 上記『御文章』の言葉にありますように、無常の風に誘われたらひとたまりもありません。いつ誘われるか分からないのがこの無常の風です。

 「止むことがなく、私たちの周りを常に吹き続けているからです。( The reason is that the permanent wind never stops and continues blowing without a stop around us. )」

 Aさんのあまりに早い逝去に驚くとともに、無常の風の私たちを容赦しない怖さを感じています。

 この五帖第十六通で、「逃れられないこの風に出会う前に一刻も早く、阿弥陀仏の本願に救われなさいよ」と、蓮如上人は力説し、促しておられます。