お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧

信心決定ということ (What Is the Realization of Shinjin) 

信心決定ということは、どんな人生の苦しみの中においても、如来に守られているという深い安心です。この決定がないと信心とは言わないのです。如来の本願を信じるとは、どんな絶望の中でも生きてゆけるということです。絶望とは自分の前にドアが閉まってい…

人身受け難し ( It Is Hard to Be Born Man ) 

お釈迦さまはこのように言っておられます。「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かって、この身を度せん」 人間に生まれることも、また仏法を聞くことも難しいことの譬えに“「…

人間として生きている今こそ ( Right Now When We Live as Man ) 

五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし(五十六億七千万年後の弥勒菩薩の出現を待たなくても、真の信心を得て念仏する人は、この機会、往生の際に成仏できます) 「正像末和讃」 釈尊の次に地球上に仏とし…

法然上人と称名念仏 ( St. Honen and Saying the Name ) 

お念仏ということはとても大事です。法然上人は称名念仏を大事になさって、一日に六万遍もお念仏をなさっていますけれども、これは決してたくさん称えたら往生するということではありません。たくさんお念仏を称えたら往生するというのなら、称名が自分の功…

中秋の名月 ( The Harvest Moon ) 

今月の13日は中秋の名月でした。晴れた夜空に浮かぶ満月が、こうこうと辺りを照らしていました。自ずと「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ(法然上人)」という歌が思い浮かびました。 月の光は辺り一面を隅々まで照らしますが…

死後の世界はあるの? ( Does the World after Our Death Exist? ) 

とりわけ仏教の問題は、人間としての自分の問題ではなくて、衆生としての自己そのものの問題です。自己そのものは単に人間とはいえないでしょう。われわれはこの世では人間という形相をとっていますけれども、自己そのものはいろいろな可能的な存在の形相を…

末法の自覚 ( One’s Consciousness of the Last Dharma-age ) 

『往生論註』(曇鸞和尚)には、どうして易行道でなければならないかという理由が書かれています。難行道がどうして難しいかといいますと、私どもが本質的に凡夫だということはもちろんでありますが、ただそれだけではありません。もうひとつの理由に、私ど…

他力の信心は「難信」(Shinjin of Other Power Is " Difficult Shinjin " ) 

念仏往生の道では戒律はすべて不要だし、善根功徳を積むことも要りませんから、易行道であります。 それではそれだけでよいかと言うと、決してそうではありません。とても大事なことが一つあります。それは、この私のような罪悪深重の凡夫を、そのまま救うと…

裸で生まれ、裸で死んでいくのが人間 ( It Is Man Who Is Born and Dies Naked ) 

自分は学歴も、地位もないと嘆く人がいます。しかし、それがどうしたというのでしょう。 (略) 人間はオギャーと生まれたときは、文字どおり裸です。何も身につけずに、お母さんのお腹の中から生まれてきます。生きている間に、努力して出世し、お金を儲け…

念仏より大切なものはない ( Nothing Is More Important than the Nembutsu ) 

一期(いちご)の大事、ただ是(これ)にすぎたるはなし(一生の中で最も大切なことは、念仏の他にありません)『末燈鈔』 “一期”といいますのは、“一期一会(いちごいちえ)”というときの一期ですから、一生、と理解してよいでしょう。 人間の一生にとって…