お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Hunting and Fishing, 1-3(猟すなどり章 1帖第3通)

 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。          
 ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞと深く信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。                                    
 このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちのあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。             
(Beyond this, in what state of mind should we say the nembutsu? We should say
the nembutsu as long as we live, acknowledging our deep indebtedness to the
benevolence of Amida who saves us by settling our birth through the endowment
of the power of entrusting which we thus receive.) (英訳: Letters of Rennyo より)


 これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。        
 あなかしこ あなかしこ。                       
   文明三年十二月十八日                       
    【 Letters of Rennyo  本願寺国際センター(発行) 】  
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 蓮如上人の生きておられた、今から約550年前も、今も、時代背景は違いますが、その時代、時代に生きる人々の営みは本質的には同じです。       
 その営みの中で、蓮如上人は、阿弥陀仏に対する私たちの心得をしっかりと教えられています。まず、阿弥陀仏の本願を聞くことであり、聞いた上は、仏恩報謝の念仏を申すことです。命のある限り報謝の念仏を申すことだと仰っています。でも、私が無理をして申す念仏ではありません。この報謝の念仏までも、すでに用意して下さっているのですから、どこまでもお慈悲の仏さまです。   
 この『御文章』の1帖第3通を拝読するたびに、日々の生活での、報謝の念仏の大切さを改めて教えられます。