お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

From the Same Mouth(同じ口から)

 愚痴や怒りの言葉が出る口と、南無阿弥陀仏という言葉が出る口とは別の口ではなくて同じ口です。あっちの口で悪口を言って、こっちの口で南無阿弥陀仏と言っている人はいません。同じ口から出るというところが尊く有難いんではないですか。          
 つまり、私たちを地獄へみちびく種を作っている、その同じ口が、お浄土への言葉を言う口にされるという、そのことの不思議です。いろいろと悪口や愚痴を言って汚れている口だから、南無阿弥陀仏がお出にならないかといえば、そうではなく平気で出て下さる。南無阿弥陀仏は私どもの口の汚れをものともせず、衆生の煩悩の汚濁を問題にせずに、そんな汚い口から私は出ないよとは言わないで平気で出てくださるのです。このことが何としても不思議です。まさしくこれが如来様の心の到来ですから、私どもはこの煩悩がとれないままで助かってお浄土に往けるんです。                          
   【 『弟子一人ももたず「歎異抄」第六条』 大峯顯 百華苑  】       
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 「愚痴や怒りの言葉が出る口と、南無阿弥陀仏という言葉が出る口」とは、正に私たちの同じ口です。大峯師から、「このことが何としても不思議です」と指摘されてみますと、改めて、その不思議さを感じます。                           


 ところで、念仏は煩悩にかかわらず出て下さるということですが、このことから、泥の中にありながら泥に染まることなく咲く蓮の花が思い浮かびます。真実の信心も同様に、私たちの煩悩いっぱいの心の中にありながら、煩悩に染まることなく咲いて下さるからです。                                       


 このことは、仏教で正しい信心の特徴を蓮の五つの特徴、つまり、「蓮の五徳」
(the five virtues of a lotus) を通して教えられていますが、その中の一つ、「汚泥不染の徳」(the virtue of not being infected with dirty mud)という言葉で表現されています。   

 煩悩に染まることなく、煩悩をものともせずに出て下さる念仏。念仏も信心も、共に阿弥陀仏のおはからいによるものですから(このように考えますと)、不思議さもなるほど、と納得できるのです。