お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Amida’s Directing of virtue(回向)

 今まで私は、「生あるものは必ず死ぬ」と学び、そのように講義や法話もしてきました。しかし、実際に父の死にあいますと、この世ではもう二度と父に会えないという悲しみは深く、今まで学び、また話してきた先の言葉は一片の慰めにもなりません。ただ、父の往った浄土にいずれわたしも往くのだという思い、また還り来った父が、同じこの世のどこかで大悲のはたらきをしているという思いは、何分か私の悲しみを癒してくれます。      
 そんなあるとき、                           
  南無阿弥陀仏の回向の                        
  恩徳広大不思議にて                         
  往相回向の利益には                         
  還相回向に回入せり(『注釈版聖典』六〇九頁)            
のご和讃が目に触れました。今まで、父の往生や還相ということに気持ちが奪われ、その本源である「南無阿弥陀仏の回向の恩徳広大不思議」が、等閑になっていたのではないかということに気がつきました。お念仏を横に置いて、父の還相を求めていた自分が恥ずかしく思われます。身近なものの死に出会ったとき、その往生や還相のみに気が取られ、往相も還相も、南無阿弥陀仏のはたらきであるということを忘れるようでは、枝葉末節に気を取られて、根本を忘れているということになります。お念仏のなかにこそ、父の往生も還相もあるということに、改めて思いを致す昨今であります。                  
      【 『やわらかな眼』 内藤智康 本願寺出版社 】      
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 身近なものの死に出会ったとき、その悲しみは本人にしか分からないものがあります。ここで内藤師は、亡くなられたお父さんの死を通して往相、還相に言及しておられますが、私も父母や夫を亡くしていますので、そのことに思いをめぐらすいい機会となりました。父母や夫は生前、仏法を熱心に聞いていましたから、私としては皆が信心を得て、浄土に往生していると思っています。そうすれば、三人ともこの世に還ってきて、今、大悲のはたらきをしているでしょう。そう思うと悲しみは癒されます。                 
 また、内藤師が指摘される根本的なこと、                
「往相も、還相も阿弥陀仏のはたらきであることを忘れてはならない」ということに気づかされました( I was made to notice the fundamental matter that the aspect for
our going forth to the Pure Land and the aspect for our return to this world are the
work by Amida Buddha, which I should not forget.)。