お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

How to Taste Other Power ___ in My Case(他力の味わい___ 私の場合)

 「仏法においては、愛するものと別れる悲しみにも、求めても得られない苦しみにも、すべてどのようなことにつけても、このたび必ず浄土に往生させていただくことを思うと喜びが多くなるものである。それは仏のご恩である」と仰せになりました。
     【 蓮如上人御一代記聞書 (現代語版) 】


 
 清沢満之は、彼独自の他力の味わいを語り、「“他力の生活”を経験しているのである」、というような表現もしています。私は私自身の“他力の生活”について考えてみました。まず、日ごろ強いて意識して生活していなければ“他力の生活”ということを忘れています。とは言え、意識した上で、見えてくる生活と言っても、別段、普通の生活と何ら変わったところはありません。嬉しい時、腹立たしい時、哀しい時、楽しい時、心が落ち着いて平穏な時、心が騒いで落ち着かない時等、四六時中、見えてくるのは煩悩の坩堝(るつぼ)の中にいる自己の姿です。

 しかし、他力の生活を考えた時、以前と確実に違う点があります。どんなに苦しいこと、悲しいことがあっても、それが以前は底なしの苦しみ、あるいは底なしの悲しみへと続いていったものが、今はそれに底ができたことです。上述しました御一代記聞書の中で蓮如上人が言われている通りだからでしょう。

 ですから、どんな時でも心の底に安堵感があります。そのために言えることは、喜びの多い生活であるということですね。また、以前と違う点と言えば、無意識のうちに念仏が口をついて出ることでしょうか。でもこの念仏は、全く忘れていることもあるのですが、ふと気が付くと胸いっぱいに溢れていたりすることもあるのです。このようなことは以前はなかったことなので、これらのこと(安堵感があることや念仏の湧出)が、“他力の生活”の大きな特徴であると私は味わっています。

 
How to taste Other Power___ in my case;
The great differences between before the salvation and after the salvation.
1. Before;
My sorrows or sufferings were endless. They had no bottoms.
After;
Now that my sorrows or sufferings have their bottoms, I am always relieved at the
bottom of my heart.
2. Nembutsu escapes my lips voluntarily, which was not so until I was saved by
the Tathagata.