お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Beyond Conception(不可思議)

 念仏の世界の不可思議とは、人間の分別的な知性では考えることができないということです。( What is beyond conception in the world of the nembutsu
is that human beings can not think with human discreet intellect. )
なぜかというと、人間の思考は「我」というものを中心にした思考であり、我の枠の外には原理的に出られないからです。しかし、ほんとうにナンマンダブを称えているところには我なんてもうないのです。ほんとうにナンマンダブをよろこんでいる人には我はありません。そのとき、我はもう如来さまの無我の心、慈悲の心に貫通され融かされているんです。我のはからいがあるかぎり如来さまは遠くにあって私どもと対立しています。                    
  (略)                                    
 しかし、如来さまのお慈悲のことをふだんからお聞きになっているお念仏の人は、「ああ、私はもうこの世で、我というものがない広大無辺な仏さまの慈悲に生かされているんだ」ということをわからしてもらえるでしょう。そういうお念仏の世界は自分の力で称えたり、人間の頭で説明したり、自分の頭で分別したりできないにもかかわらず、決して遠いところではなく、私たちがその中で現にいま生きている世界のことなのです。          
 【  『自然の道理 「歎異抄」第十条』 大峯顯 百華苑   】         
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 私たちは物事を考える時、その事が正しいか正しくないか、大きいか小さいか、あるいは、その事をするかしないか、好きか嫌いか、さてどっち?と白黒をつけたがります。いや、そうせずには考えがまとまりません。これは、私たちは分別的な知性でしか物事を考えることができないからである、と大峯師は教えられます。因みに辞書には、分別の意味を「理性で物事の善悪、道理を区別してわきまえること」とあります。              

 ところが、仏さまの智慧、仏智はそのような区別をしない、つまり、分別をしない智慧であるといわれます。ですから、私たち人間の知恵、人智では、とうてい仏智を思いはかることはできません。                                 


 そのような仏智から作り出された名号は、阿弥陀仏智慧の満入した人間の思議を超越した格別のものです。その名号を称えることを妙好人の浅原才市さんは、「名号わたしに当たって南無阿弥陀仏」とか、「名号はわしが称えるじゃない、わしにひびいて南無阿弥陀仏」などと歌っています。これは、阿弥陀仏が称えられる念仏が、私に当たってこだまとなって私の口から出るということですから、私自身が称えているのではないということになります。このことは、大峯師が言われる「(私の)我はもう如来さまの無我の心、慈悲の心に貫通され融かされている」ためである、といえるでしょう。               


 しかもその称名念仏が、現に今起きているということは、「決して遠いところではなく」、直々に阿弥陀仏が今、ここで働いておられることの証だといえます。          
 これはまた、大峯師の言われる、人間の分別的な知性では考えることができない「念仏の世界の不可思議」の一端に他ならないと考えられます。