お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Vow and Name Can’t Be Distinguished(誓願と名号は不二)

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とあるように、誓願の不思議を信ずることがそのまま名号不思議を信ずることでもあります。如来さまの誓願不思議を信じたら必ずナンマンダブツの念仏が出てくると教えておられます。誓願の不思議の中に名号の不思議がはじめからこもっているからです。だから誓願と名号は不二です。同一というと、実体としてある二つのものが一つだというふうに受けとられるきらいがありますから、仏教では同一といわずに不二という言葉が使われます。「同一」は二つのものが一つに結びついた姿ですが、「不二」はもともと一つだということです。つまり、如来誓願があるところに同時に名号の不思議もあるわけです。名号の不思議と言ったところで誓願の不思議以外にない。逆に誓願不思議と言ったって名号不思議以外にない。両方はおたがいに他を予想し合うのです。     
  【 『誓願か名号か「歎異抄第十一条」』 大峯顯 百華苑  】          
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 歎異抄第十一条の中で、ある人が同行に「あなたは誓願の不思議を信じるのか、それとも名号の不思議を信じるのか」と、二つのことが、別々のことであるかのように尋ねています。しかし、(歎異抄の著者といわれる)唯円は、このことについて次のように書いています。


 「誓願の不思議をむねと信じたつまれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに異なることなきなり」( When we entrust ourselves to
the inconceivable working of the Vow, taking it as essential, the inconceivable
working of the Name is also included; the inconceivable working of the Vow
and that of the Name are one, with no distinction whatever. )


 つまり、唯円誓願の不思議と名号の不思議は別々のことではなくて、二つに分けられることではないと言っています。                           

 ところで、大峯師はこのことに関して、より分かりやすく「不二」という言葉を使って「不二」と「同一」との違いを述べておられます。結果、誓願と名号は同一ではなくて不二であることが一層明確になりました。