Being Too Late(手遅れ)
人生は、手遅れのくり返しです。
ある僧侶
あの時はわからなかったけど今だったらわかるということが、人生にはよくある。自分のしたことが、他人に思いもよらぬ仕方で受けとめられ戸惑う。他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい、そのことも後になってようやっと知る。気づいた時はもう取り返しがつかない。経験というのはたいていそんなふうに起こる。母の年忌に、ある僧侶の言葉として住職から伺った。(朝日新聞コラム「折々のことば」 鷲田清一 より)
ここに書かれている手遅れの経験というものは、私にもよく当てはまります。本当に「人生は、手遅れのくり返し」だと思われます。
ただ、世間のことはこれで済まされますが、生きているうちに一つだけ済まされないことがあることを、蓮如上人は『御文章』の至る所で述べておられます。たとえば「白骨章」とも称される『御文章』五帖十六通の中には、このように仰っています。
「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳(まんざい)の人身を受けたりということを聞かず、一生過ぎやすし。
(略)
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
つまり、上人が仰っていることは仏法を聞き、信心決定して(後生の一大事を解決して)念仏を申す身になるということです。私たちの周りには絶えず無常の風が吹き荒れています。その風にいつ誘われるやしれません。
その時になって「あゝ、手遅れだった」では済まされないのです。この世でしか聞けない仏法です。手遅れにならないうちに、何より急がなければなりません。
(At your last moment, even if you regret not having heard the Buddha’s teaching
and moan “Alas!, it is too late,” all is over with you. You can hear the Buddhist
teaching only in this world. You should hurry hearing it more than anything before
it is too late. )