お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

A Meeting without a Farewell(「さよなら」のない出会い)

 私の先輩で五十五歳のUさんは一昨年の十一月八日、膵臓癌でお亡くなりになりました。その前夜、病床を見舞うことができ、これが最後とお互いわかっておりますから、実に濃密な時間を過ごすことになりました。                          
 病室を辞す時、今までのご交情にお礼を申した私にUさんは握手を求められ、「君、身体を大切にね。また会って話がしたいね。でも、もう無理だろうなあ・・・。でも、また会えるもんね」と、もうこれ以上ながらえない、と自らの病状をそのまま受け容れた落ち着いた声でおっしゃいます。………………………………
 その時の「また会えるもんね」のUさんの声の響きとお顔を、いまだにわすれることはできません。…………………………………              
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……. 「さよなら」という言葉がないお別れの仕方もあるのだなあ、これこそが「本当の出会い」なんだなあ、と改めて教えられたUさんとの「別れ」でした。          
 これは「人間死んだらおしまい」「死は嫌なこと」「死は敗北」などと考えるところには決して味わえない、温もりのある「別れ」であり、「出会い」であると言うべきです。このような出会いは過去、現在、未来を貫く永遠のいのちの場であるお浄土をいただくことができた時、初めて醸し出されるもののようです。(松月博宣 福岡県・海徳寺住職)       
   【 『やわらか法話(1)』 本願寺出版社 】            
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 会うは別れの始めと言いますが、生きている間には多くの出会いと別れがあります。生きていればまた会う機会もあるけれども、死に臨んだら、永遠の別れです。しかし、世間では先に逝った両親を思い「死んだらまたあの世で会えるから」と言う人たちもいます。はたしてそう言っている人たちは、確信を持って言っているのでしょうか。           

 阿弥陀さまは、私たちの出会いをちゃんと約束されています。ですから法の友は最高です。「弥陀の浄土で待っています」「待っていてください。私もあとから行きますから」と、確信を持って言えるのですから・・・。だから永遠の「さよなら」はありません。上記、松月氏とUさんも最も幸せな人たちに違いありません。
( Amida Buddha has promised our meeting in the Pure Land. That’s why our friends
believing in Buddhism are the happiest. They can certainly say, “I’ll wait for you in
the Pure Land,” and “I’ll certainly see you there later.” Therefore, there is no farewell
between them. Mr. Matsuduki and his senior U must be also the happiest people.)