In Rapids and Impermanence(激流と無常の中で)
まず、激流ということですが、これは私たちの生きている世界を大きな激流に譬えているのです。煩悩に縛られ、支配されている私たちは、激しく流れる水に押し流されているようなものだというのです。
また、煩悩のことを暴流(ぼる)ともいいます。これも勢いよく流れ出る水をせき止めることができないように、なかなか制御できないことを示している言葉です。とどまることを知らない、そのすさまじさに恐ろしささえ感ずることがあります。
(中略)
今ひとつ、激流と併せて無常の風ということについて考えてみましょう。蓮如上人のお示しになられた「御文章」の中の「白骨の章」には、
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに
閉じ、ひとつの息ながくたえぬれば………。
とあります。
この「御文章」は、一応無常の風が吹いてきたならば、と仮定形に受け取れます。無常の風がどこか遠くで吹いていて、いつか吹いてきたならば、とその意味をとることができそうです。
しかし、ここはそうとるべきではありません。無常の風はいつも私のまわりを吹いているのです。私と離れたところで吹いているのではありません。私が無常の風、激流の中で生きているということであります。そのことをしっかり聴いていきたいものです。(太田利生・龍谷大学名誉教授)
【 『 やわらか法話(1) 』 本願寺出版社 】
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私たちの生きている世界は、地震や火山爆発、津波、台風、豪雨、異常気象などの自然災害、そして、戦争や火災、公害、交通事故などの人為的災害、これら多種多様の災害に満ちあふれています。まさに筆者の言葉通り、激流の世界です。しかし、これらに勝るとも劣らないものが、煩悩という激流であると、筆者は「とどまることを知らない、そのすさまじさに恐ろしささえ感ずることがあります」と言われます。全くその通りと頷かざるをえません。
更に、その上をいくものが「無常の風」ではないでしょうか。「無常の風はいつも私のまわりを吹いているのです。私と離れたところで吹いているのではありません」と筆者は言われます。いつ無常の風に吹かれても不思議ではありません。
このような激流と無常の風の中で生きている私たちです。もし阿弥陀仏のみ教え、ご本願がなかったら、私はどうなるのだろうとよく考えます。心から本願に出遇えてよかったと思うのです。蓮如上人の次のお言葉(御文章五帖第五通)をありがたく拝受したいと思います。
「他力の信心をしっかりと心のうちにいただき、そのうえで、仏のご恩にお応えし、感謝するには、歩いていても、止まっていても、坐わっていても、臥していても、いついかなる時も、お念仏を申されるべきであるということ、そのことばかりです」
(You should realize shinjin of Other Power, and then say nembutsu anytime and
anywhere ____ when you are walking, stopping, sitting and lying ____ in order to
thank Amida Buddha for your gratitude to the Buddha.)