お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

『明日をひらく「一期一話」』(6)

          おしえ(1)                     
 坊主への罵声を集めました。「乞食坊主」「葬式坊主」「坊主丸儲け」。でもよく吟味すると尊い言葉です。まず「乞食坊主」ですが、釈尊はお弟子とともに毎朝町に出て、食糧の喜捨を受けられました。それは人々に布施の徳を積ませるためで、自身のためではありません。
 「葬式坊主」は、昔は死生観、人生観は坊主の専売特許でしたが、今は広く一般に行われ、坊主の仕事は葬式になりました。でも葬式は坊主抜きでは成り立ちません。ちなみに葬式に唱える経文は、「勧聚偈」に始まり、「白骨の御文」まで、遺族の悲しみを慰めるものです。
 「坊主丸儲け」昔から「ただより怖いものはない」と言います。それは見返りに限りがないからです。さればこそ修行を積み勉学に励みます。私たちは「御坊様」の愛称で呼ばれることが一番うれしいのです。(pp.120-121)(小矢部市覚順寺前住職 故・榊 常順)   
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 ここに書かれています「乞食坊主」の意味は、「広辞苑」には、「[仏] 僧が人家の門に立ち、食を乞いもとめること。托鉢(たくはつ)」とあります。上記にありますように、お釈迦さまの托鉢の意図は、「人々に布施の徳を積ませるため」でありました。世間でいわれる乞食、「食物や金銭を恵んでもらって生活する者。ものもらい。(広辞苑)」の意味はありません。                                      
 また、葬式は亡くなった人を縁として仏法に親しむ良い機会です。でもその場で唱えられる経文は、一般の人には難しすぎて理解され難いものです。ただ経文を唱えて終わるのではなく、葬式という機会を生かして、その場でちょっとした法話の場が持たれるなど、出席者の仏法を聞くご縁になればいいのに、と思います。                  


 現在は、仏教を聞く機会が薄れています。お坊さんには「法を説き、仏法を広める努力」が求められていると思います。( At the present in which we have only
a few chances to hear the teachings of Buddhism, Buddhist monks are required to
propagate Buddhism, I think. ) それに応えてこそ、榊師の言われる「御坊様」の愛称が一番似つかわしく響くのではないでしょうか。                    


※ 『明日をひらく「一期一話」』: 北國新聞社発行