Deeds from the Distant Past and Freedom(宿業と自由)
「宿縁」といっても「業縁」といっても同じ意味ですが、この概念には非常に難しい問題がふくまれています。もし人間生活の一切が過去からの宿業で決まるのだとしたら、我々の自由や責任はどこへ行ってしまうのか。良い心が起こるのも宿縁のしからしむところだし、悪い心が起こるのも宿縁のもよおすところだということになると、私の自由意志はいったいどうなるのかという、当然の疑問が出てくるでしょう。
(略)
(ところが)私たちは自分の行為や言葉づかいや考えについて自由な選択というものを瞬間瞬間にやって生きているわけです。「こうしようか、ああしようか」と判断し、ときには思い悩んでいるわけです。就職や結婚のことでもこうしようかああしようかと、息子さんも悩んでいるが、両親も悩んでいる。両親と息子さんの選択が一致しない場合もあります。そこにまた悩みが出てくる(笑)。そういうふうに、人間は毎日毎日、瞬間瞬間にあれかこれかの選択をしています。誰かに代わってもらうことはできません。自分が今ここに現にあるという存在のひとつの大きな要素は、この自由な選択です。
【 『宿業と自由「歎異抄」第十三条』 大峯顯 百華苑 】
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「自分が今ここに現にあるという存在のひとつの大きな要素は、この自由な選択です」(A great factor in the existence that I am really here now is this free choice of
mine.)
「宿業と自由」の関係がとても分かりやすく説明されています。私の「存在のひとつの大きな要素」は、過去からの強い業縁があるにもかかわらず、「自由な選択」ができることである、とはとても安心できるところです。生きていく上で、自由ほどいいものはないでしょう。