Conditions from the Distant Past(宿縁)
「たまたま行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ」。『教行信証』の総序の中の言葉です。自分にふと信心が湧いたら、それは私の心が良くてしっかり聴聞したからだなんて思うのはとんでもないことだ。そうではなく、ひとえに遠い宿縁のお蔭だというのです。私がこの世に生まれてくる前の遠い遠い過去世から、私のための仏様方の方便の働きがあったからです。仏様が私を信心の身にするために手をかえ品をかえいろんなはたらきをして下さった。これを「善巧方便」と言うんですね。
(略)
反対に、悪い心のほうも悪いことをしないでおこうと思っても止められるわけじゃないのです。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」と親鸞聖人は言っておられます。人を殺すまいと思ったって殺してしまうのです。たとえば戦争中に、戦場で敵の兵士を殺された方もおられるでしょう。殺そうという気持ちが無い人でも、たまたま国家の歴史的運命のなかに巻き込まれて、国家の命令に従って一軍人として戦地におもむき、したくないことをするという悲劇が起こったわけです。どんなに殺すまいと思っても殺してしまうということが戦場ではいたるところにあった事実じゃないでしょうか。そうすると、人間は悪いことをしようと思ってするとは決まっていない、いくらすまいと思っても、してしまうということがあるのです。
【 『宿業と自由「歎異抄」第十三条』 大峯顯 百華苑 】
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人間は悪いことはしないでおこうと、どんなに思っても、然るべき縁がくればやってしまうんだと教えられます。親鸞聖人はこのことを、
「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」
(If the karmic cause so prompts us, we will commit any kind of act.)
と言われました。
もし、これ以上どうすることもできなかったら絶望的です。しかし、「宿縁」(「阿弥陀仏が遠いはてしない昔から、衆生を救済しようという誓願をたてた縁のこと」『浄土真宗聖典』)という縁があったのです。聖人は、宿縁により過去の悪い縁を断ち切られ、助けられた喜びを、
「たまたま行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ 」
(If you should come to realize this practice and shinjin, rejoice at the
conditions from the distant past that have brought it about.)
と言われました。
これこそ、無上の喜びですね。