お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Self(自己)

 各人がそれぞれ自己自身にもっとも遠い者である                  
                     ニーチェ                
道徳の系譜」のなかで引かれているドイツの格言。最も見えにくいものは自分自身である。(略)  私の看板であるこの顔、それをよりによって自分だけが見られないことの怖さに心が凍りつく。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)        


 いつもさらけ出している自分の顔を自分で見られないとは、恐ろしいことです。でも、まだ鏡がありますから少しは安心ですが…..。しかし、内面の「心の顔」である私という自己の姿はどうでしょう。「灯台下暗し」と言われますように、自己は自己に近すぎるために本当の姿が見えにくいのだといわれます。それに、煩悩で覆われた自己ですから、どうしても自身の本当の姿を正視することは不可能だと考えられます。では、他人の目に映った自己の姿はどうでしょう。この場合も、他人が100人いれば 100通りの自己が映りますから、本当の自己というものは分からないままです。                     


 では、一体どうすれば自己が分かるのでしょう。幸いにも仏教に、その答えが示されています。つまり仏教は真実の自己を映す法鏡でもあるのです。その法鏡に映し出された自己を親鸞聖人はこのように述べておられます。                      
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし」(『愚禿鈔』)                             

また、
 「‘凡夫’といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)                             
(Foolish beings are full of ignorance and blind passion. Our desires are countless, and anger, wrath, jealousy, and envy are overwhelming, arising without pause; to the very
last moment of life they do not cease, or disappear, or exhaust themselves.) ( Notes on One-Calling and Many-Calling )


 法鏡(仏教)によらなければ、私たちの本当の自己は毛頭わからないと言えるでしょう。