お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Is the Nembutsu of All People the Same?(誰の念仏も同じなのか?)

 ここで、いま一つ確認の意味で自問したいのです。それはズバリ言って、“親鸞聖人の申された念仏と、自分が申す念仏と同じと言えるのか?”ということです。違うと言うなら、なぜ違うのか。同じと言うなら、なぜ同じなのか。分別に生きている私どもからは、違うとしか言えません。信心が明瞭な人の念仏と、そうでない者の念仏とが、どうして同じと言えるのか、違っていて当たり前ではないか、と思うからです。              
 ならば、ここで重ねて自問してみましょう。もしそうであるなら、念仏は申す人、申す心によってほんものになったり、にせものになったりするのでしょうか。そうつぶやく一方で、念仏は誰が、どんな心で申そうとも同じではないか、という問いかけも突きあげてきます。 
 それもそのはず、念仏は名声仏として、如来そのものの発現だったからです。そこではもはや、信心の有無(称え心の優劣)は関係ないのです。ここにこそ「誰の念仏も、どんな心で申す念仏も同じ」ということの本質的理由があったのです。             
    【『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦 東本願寺出版 】         
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 「誰の念仏も同じなのか」という問いに対する答えは「同じである」です。       


その理由は「念仏は名声仏として、如来そのものの発現だったから」です。( it is the
reason that the Nembutsu is because of the appearance of the Buddha-body itself as
the Name-Buddha.)


 ここで、名声(みょうしょう)とは、「阿弥陀仏の名号のこと」(『浄土真宗聖典』)ですから、「同じである」理由を少し表現を変えて申しますと、「念仏は名声仏(名号仏)として、如来そのものの発現(現れ出られたもの)だったから」です、と言えるでしょう。    


 ところで、この文からどうしても思い出してしまうものに、妙好人と言われる浅原才市さんの「名号私に当たって南無阿弥陀仏」という言葉があります。この言葉は、大峯顯師が自著である『無碍の一道「歎異抄」第七条・第八条』(p.70, l.7~ p.71, l.7 )の中で書かれているのですが、「南無阿弥陀仏という称名念仏も決して私の方から始まるのではなく、如来様が私を称えさせて下さるのです」、と言っておられます。これは、池田師の言われていることと同じであることは、言うに及びません。                     
      http://d.hatena.ne.jp/miko415/20121011 (称名念仏)