お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

In What Sort of Mind(どんな心で)

 私が憶念している至言が、いまも想起されます。それは、ある人が暁烏敏師に「念仏はどんな心で申したらよろしいか」と質問したときのこと。師の答えは「お念仏は、おならする要領や」、この一言だったのです。何とユーモラスな表現でしょうか。この一語にすべて尽くされるように思います。                             
 念仏は、出るのがほんもの、出すのははからい。そう思えば、「念仏の声は大きいほうがいいか。小さいほうがいいか」なんてそんなことはすべて論ずる必要がありませんね。出るまま、出すまま、そのまんまです。                         
 私がかつて直接お聞きした言葉では、真宗大谷派門徒、故・山下成一翁が、「身体が念仏しとる」と喝破されたことがわすれられません。身体が念仏しとる。だからこそ、口にも意にも表れていてくださいます。                           
     【『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦 東本願寺出版】         
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 暁烏敏(あけがらすはや・真宗大谷派の僧侶)師の「お念仏は、おならする要領や( You should say the Nembutsu in the way of breaking wind.) 」、また、山下成一氏の「身体が念仏しとる( My body is saying the Nembutsu.) 」という表現は、とてもユニークで忘れられそうもありません。                               
 念仏するのに、「どんな心で申したらいいのか」、という問いに対して、「心を問わない」、ということであり、出るがまま、出すがまま、つまり、阿弥陀さまのお計らいのままであるのです。  
 まさに才市さんの言う、「名号私に当たって南無阿弥陀仏」です。