お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

親鸞聖人はなぜ『教行信証』を書かれたのか?

 仏教のお経は、大量に存在する。そのため、それらをどう整理し、何が重要であるかを示す必要性が生じた。

 親鸞聖人のみならず、各宗派の祖師方は多様な数多くの仏典を引用し、仏教全体を総合的に理解しつつ、それぞれの教義の正当性を明らかにしていった。

 親鸞聖人の『教行信証』も、同様の性格を持つものとうかがえる。

 しかし、親鸞聖人にとって、教行信証』は、ただ教義の正当性を立証するだけの作業ではなかった。

 親鸞聖人は、最後まで『教行信証』に加筆され続けたのであり、阿弥陀如来の救いを、多様な仏典に依りながら確かめて頷(うなず)いていくという、信心を喜ぶ生活そのものであったのだろう。

     【 『ここがわからん 浄土真宗 』  大法輪閣編集部[編]  】

 

 過去に、各宗派の祖師方による経典の整理があったということを初めて知りました。親鸞聖人も例外ではなかったのですが、聖人にとっては「ただ教義の正当性を立証するだけの作業ではなかった」のです。

 聖人が、『教行信証』に加筆された文面の写真を何度か目にしたことがあります。上記の如く、「親鸞聖人の生涯は信心を喜ぶ生活そのものであった(Saint Shinran’s life was an everyday life itself for him to be pleased at shinjin.)」のだろうことが窺えます。

なぜ『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を唱えないのか?

 浄土真宗では「読経」を、功績を積むためのものではなく、信心をいただいた者が「仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)」すなわち仏さまの救いに感謝し、讃(たた)えるために行うものとする。

 しかし『般若心経』には、ご本願も念仏も、阿弥陀仏のことも説かれていない。仏徳讃嘆としては、宛名の異なる経典になってしまうので、『般若心経』だけでなく、阿弥陀仏の救いを説かない経典は、阿弥陀如来に向かって読誦されることがない。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編] 】

 

 「浄土真宗での「読経」する意味がきちんと書かれています( In Shin Buddhism, the

meaning of a sutra recitation is written properly.)」「『般若心経』だけでなく………….

………………. 阿弥陀仏に向かって読誦されることがない」の部分からは、当然のことではないかと思われます。

「般若心経」 [百科事典マイペディア]

 大乗仏典の一つ。玄奘(げんじょう)訳では262字。最も短い経典であるが、諸法皆空の般若心経の要点を最もよく表現している。<色即是空(しきそくぜくう)・空即是色>の名句があり、古くから日本の在家(ざいけ)信者にも読誦(どくじゅ)された。

念仏は称えれば称えるほど救われるのか?

 法然の弟子には、その専修念仏の教えを、量が大切な問題だと受けとめる弟子が多くいる中で、親鸞は念仏は質が問題だと明らかにしたといえる。

 その質とは、法然の主張した念仏の真意は、信心を伴う念仏こそがまことの念仏だと理解したことである。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編] 】

 

 念仏は「量より質が大事である。( Quality is more important than quantity. )」と言われます。信心を伴わない念仏を「専修念仏しても(専ら称えても)」救われることはありません。ですので、前回書きましたが、「称名念仏によって往生成仏が決定するのではない」ということです。救われるとは、あくまで阿弥陀仏の本願を聞いて(本願に対する)疑心がなくなることであり、念仏の多少と関係がないことなのです。ですので、「念仏は称えれば称えるほど救われる」ということはありません。

「乃至(ないし)十念」の意味

 阿弥陀仏四十八願を立てられました。法然上人は、この四十八の誓願の中で「第十八の願」を本願中の王であると言われました。(『浄土真宗聖典』補注P.1572)

 第十八願の文はこのようです。「たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、我が国に生ぜんと欲(おも)いて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」

 ここで言われています「乃至十念」の意味を(『真宗の教義と安心』P.48)より引きます。「乃至十念というのは、称名の多い少ないを問わないということであり、さらに言えば称名の有る無しも問わないということであるこれは称名念仏によって往生成仏が決定するのではないことを意味している」。このように、乃至念十とは称名の有る無しも問わないということですから、突き詰めれば一遍も念仏しなくても問題ないということです。

 ところで、大事なことは念仏には必ず信心が具していることです。親鸞聖人は『信文類』に、真実信心必具名号(真実の信心は必ず名号を具す)と明らかにされています。ですので、信心を得たなら、念仏はせずにおれなくなるのも当然でしょう。

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」( If, when I attain Buddhahood, the sentient beings of the ten quarters who, with sincere and entrusting heart, aspire to be born in my land and say my name even ten times, should not be born there, may I not attain the perfect enlightenment. Excluded are those who commit the five grave offences and those who slander the right Dharma.              ( The Three Pure Land Sutras   VolumeⅡ) 

神棚を置かないのはなぜか?

 諸神・諸仏・諸菩薩をかろしむべからず。(「御文」)

 浄土真宗は、阿弥陀如来一仏を本尊とするので、他の神仏をたのむ必要はない。よって、阿弥陀如来を安置する御内仏(おないぶつ)があれば、神棚もまた必要がないこととなる。

 しかし、阿弥陀如来一仏のみを信じるからといって、決して他の神仏をないがしろにしていいわけではない。

 前掲の通りに浄土真宗門徒を戒めて、蓮如上人は「御文」第二条第三通に、

 「信心無き衆生がむなしく地獄に墜ちるのを悲しんで、なんとかして救おうとしてかりそめに仏となって、些細な縁をたよりとしてでも、仏法に勧め入れるための方便として、仏が神となってあらわれた(趣意)」

 と記している。つまり、他の神仏もまた、私たちを念仏へと導くための化仏(けぶつ)として丁寧に取り扱うべきである。

      【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]  】

 

 「浄土真宗は、阿弥陀如来一仏を本尊とするので、他の神仏をたのむ必要はない。(There is no need for Shin Buddhism to rely on other God or Buddha, because it makes

only Amida Tathagata the principal image. )」と言われます。

 ですから、仏壇のある家には、神棚を置く必要はないと思われます。しかし、「決して他の神仏をないがしろにしていいわけではない」との言葉に気を配りたいと思います。

仏壇に故人の写真を飾ってはいけないのはなぜか?

 浄土真宗の仏壇「御内仏」は、阿弥陀如来の極楽浄土を表現した空間であり、本尊は阿弥陀如来一仏である。それ故、私たちは内仏の阿弥陀如来を拝み念仏を称えるはずなのに、故人の写真を拝み、手を合わせて念仏してしまうことになる。

 このように合掌礼拝対象である阿弥陀如来以外の写真等を御内仏の中に飾る必要はない。

 しかし、仏壇の外に飾ることは可能であろう。飽くまで、阿弥陀如来の浄土荘厳と、娑婆世界とが異なることを弁(わきま)えるべきである。

     【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]  】

 

  上記に書かれている理由により、故人の写真を飾る場合は、仏壇の外に飾るように心がけましょう。( According to the above reason, we should take care to display the photo of the departed outside the family alter. )

浄土真宗は現世より死後のことを問題にしている?

 逆である。死後よりも、現世を重視している。現世において、まことの仏道を完成するか、それとも、仏法との出遇いなく、虚しく過ごすかを問いにしたのが親鸞だ。私たちが仏道を実践できるのは、この娑婆といわれる現世だ。生活の中で、称名念仏を中心として信心を開いていくことこそが、真宗の最大の課題となる。
 親鸞は、古来の浄土教解釈では、死後で初めて得られる利益と受けとめられてきた正定聚(しょうじょうじゅ)、不退転位に入ることを、現世今生の信心の利益として受けとめ、信心の人を、「すでに智慧をえて、仏になるべきみとなる」(『弥陀如来名号徳』)、「如来とひとしきひと」(『未燈鈔』)と明かした。
      【 『ここがわからん 浄土真宗』 大法輪閣編集部 [編]】 】


 まず、この世に人間として生を受けることが何より大事なことです。そして仏法と出遇うことが「最大の課題となります」。
 三帰依文に「人身受け難し今すでに受く 仏法聞き難し今すでに聞く」とあります。人間に生まれることも難しいですが、仏法を聞くことも同じように難しい、といわれます。
 村上和雄さん(筑波大学名誉教授 分子生物学者)によりますと、天文学的確率で一人の人間が生まれるといいます。具体的には7兆分の1の確率で一人の人間が生まれるということで、生まれてくる確率はゼロに限りなく近いということです。
 「命の大切さ、仏法の大切さが、心底より感じられます。( We feel the importance
of life and that of Buddhism from the bottom of our hearts. )」
  参照 https://miko415.hatenablog.com/archive/2018/06/21
                      (人間に生まれる確率

真宗が祈祷を否定する訳 ( The Reason Why the Shin Buddhism Deny Player )

 「祈る」のは、私たち凡夫の心である。私たち凡夫の祈りは、私たちの欲望の心、自己中心的な思い、自己愛がまざりあって生まれてくるものである。
 そのような欲望から離れ、さとりをひらき仏となるようにというのが、仏の祈り(願い)である。祈りの中にある煩悩に気づき、仏の願いを受け止めていくのが、浄土真宗の念仏者のあり方である。
    【 『 ここがわからん  浄土真宗 』 大法輪閣編集部 [ 編 ] 】

 

 浄土真宗は、なぜ、祈祷(きとう)を否定するのでしょう。その訳は、「煩悩まみれの私たちの願いを仏さまに聞いてもらうのではなく、仏さまの祈り(願い)を聞くのが、私たち凡夫であるからです。( We do not have Amida Buddha hear our aspirations covered in blind passions, but we foolish beings do hear the Buddha’s Vow. )」

真宗と浄土宗の教えの違い

 まず前提として、祖師親鸞聖人にとっては、法然上人が説かれた教え(浄土宗)が、そのまま浄土真宗であったことは、親鸞聖人の残された言葉から明確である。
 しかし、現在の浄土宗と浄土真宗との間に種々の相違点が見られることも事実である。例えば増上寺にお参りすれば、境内でお守りが売られ、ご祈願が行われている。
 一方、浄土真宗の寺院にはお守りもご祈祷もない。念仏による往生を説くことは両者に共通しているが、煩悩に満ちた私たちが自力で作り出すものすべてが真実でなく、往生には一切不要であるとするところに、浄土真宗の特質がある。
 だから、完全な救いがすでに準備されているのであり、私たちから何かを願う必要がないと考えるのである。
    【 『ここがわからん 浄土真宗 』 大法輪閣編集部 [ 編 ]  】

 

 この本によりますと、本願寺は戦国時代に織田信長と戦いました。現在, 東、西二つの本願寺に分立していますが、ここに落ち着くまでには、江戸時代の徳川家康等の影響も受けているという長年の歴史上の背景があります。
 また、「両派は、分立後の歴史上の中で次第に違い(「なあみだぶつ」「なあみだぶつ」と念仏の音が違う、蓮如上人の手紙の呼び名が「ご文章(ぶんしょう)」「御文(おふみ)」と違う、「往生」を死ぬ前に使用するかどうか等)を生むが,教義については一致する面が圧倒的に多い」とも書かれています。

「教義については一致する面が圧倒的に多い」ことに、ほっとします。( I feel a relief
that the Shin Buddhism and the Jodo Buddhism have each other overwhelmingly
many sides agreeable with Buddhist doctrines. )

阿弥陀如来はどこにおられるの? ( Where Is Amida Buddha ? )その(2)

 「名体不二 ( The Name and Amida Buddha’s Body Can’t Be Dualized. )」とは、「阿弥陀仏の名号とその仏体とが一つであること」『浄土真宗聖典』です。ですから、私たちの口から念仏がこぼれる、まさにその場所には、阿弥陀仏が出現されているということです。また、心の中で念仏を称えることはよくありますが、その時は心の中に阿弥陀仏がおられることになります。
 前回、「阿弥陀仏は私たちのすぐ傍におられる」と書きましたが、すぐ傍どころか、心の中におられるのでした。
 このことに関して、大峯顯師は自著の中で、詳しく書いておられます。
参照https://miko415.hatenablog.com/archive/2013/08/04阿弥陀様はどこ・・・