お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

遊べ、遊べ、ただ遊べ ( Play, Play, Only Play )

    遊戯三昧(ゆげざんまい)/  無門関禅宗の仏書)

 のんびりとして、どんなことに対してもとらわれない、そんな自由な心持ちで行われる行動が遊戯です。仏や菩薩は、この遊戯の境地をもって、私たちを救うべく活動をされています。

 世間では、遊ぶというとあまりいい意味で受け取られません。「もっと働け、怠けるな」と、悪いことでもしているような言われようです。しかし遊戯は、生きづらいこの世を生きるために大切な考え方でもあります。

 人生にはどれだけ頑張っても、うまくいかないことはあります。なんだか私の人生は、貧乏くじを引いたようなものだ。そう感じる方もいらっしゃるでしょう。

 そんなときに「私はいま貧乏くじを引く役をしているんだ。遊んでいるんだ」と考えることができたら、少しは心も軽くなるかもしれません。しょせん、この世は仮の宿り。そう考えて、自分という役を遊戯の心持ちで楽しむと、景色も違って見えてきます。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 遊戯の意味は上記に書かれていますが、更に『広辞苑』からも引きます。「遊戯;① 遊び楽しむこと ② 楽しく思うこと ③ [仏] 心にまかせて自在にふるまうこと」また、「遊戯三昧」とは「遊戯にふける(専心する)こと」とあります。

 仏や菩薩方は、衆生の教化、救済をみずからの楽しみとして行動しておられることが窺われます。

 「自分という役を遊戯の心持ちで楽しみたい」ものです。

人生100年時代の現実

 朝日新聞オピニオン欄、「人生100年時代の現実」で福家孝さん(医師・ジャーナリスト)が次のように話されていました。「ずっと元気でいて、あまり苦しまずに亡くなる『ピンピンコロリ』が理想ですが、残念ながらめったにいません。病気やけがにより不自由な体で生きる期間が平均して男性で9年、女性で12年ほどあるのが実情です。感染病などで、若死にする人が減り、寿命が延びても、がんなど加齢が大きな原因となる病気が残りました。がんの先には認知症が待ち構えており。80代後半で約4割、90歳だと約6割が発症します」

 (この記事は、今年前半ごろのものです。日付が曖昧で申し訳ありません)

 ここで言われていることは、現代の「人生100年時代」という言葉には、前向きな響きがあり「ピンピンコロリ」が理想ですが、残念ながらそのような人はめったにいないということです。

 手品師さんの< 2020・10・3 > のブログ「人生100年時代?!」には、「日本の総人口(1億2,581万人)の中で、100歳以上(約4,2万人)の割合は、0.03%とかなり少ない結果です」と書かれています。

 「理想と現実には大きなギャップがありますね。( We have a great gap between our

ideal and reality, haven’t we? )

 人生100年時代の現実 ( the reality of life in the 100 years era )

参照https://tarou310.hatenablog.com/archive/2020/10/03

                     (人生100年時代?!)

 

無常の風 ( The Wind of Permanence )

 『御文章』五帖第十六通の「白骨の章」には、次のような一節があります。「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば紅顔むなしく変じて桃季(とうり)の装いを失いぬるときは、六親(ろくしん)・眷属(けんぞく)集まりて嘆き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」

 つい先日、隣家の奥さん(Aさん)が亡くなられました。50歳を少し過ぎたAさんは、とても元気そうな方でしたが、脳梗塞であっという間に旅立たれてしまったのです。

 上記『御文章』の言葉にありますように、無常の風に誘われたらひとたまりもありません。いつ誘われるか分からないのがこの無常の風です。

 「止むことがなく、私たちの周りを常に吹き続けているからです。( The reason is that the permanent wind never stops and continues blowing without a stop around us. )」

 Aさんのあまりに早い逝去に驚くとともに、無常の風の私たちを容赦しない怖さを感じています。

 この五帖第十六通で、「逃れられないこの風に出会う前に一刻も早く、阿弥陀仏の本願に救われなさいよ」と、蓮如上人は力説し、促しておられます。

自分の人生を引き受けよ ( Undertake Self-life )

    自業自得  /  仏教語

 石を池に向かって投げれば底に沈んでいくように、一つの結果には必ず原因となる行いがあります。そして自分のなした行動―業によって、次の行動は引き出されます。それが自業自得という考え方です。

 いいことも、悪いことも、すべては自らの業の結果です。自らがなしたことに対する責任からは、誰も逃れることはできません。なぜなら私たちは、それぞれの人生において主人公であるからです。

 思うようにいかない人生を誰かのせいにするたび、人生は自分から遠ざかっていきます。逆にしっかりと引き受けて、責任を果たすたび私たちは人生の主人公として生きることができるようになります。

 「善因善果 悪因悪果

 と言いますが、人生はその行動を変えることで変わります。過去を懐かしんだり、縛られるのは終わりにしましょう。貪ることを止めて、分かちあうことを考えましょう。人生を引き受けることが、自由を生むのです

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 哲学では「因果律(因果の法則)が説かれていて、『広辞苑』にはこのように書かれています。「[哲] 一切のものは原因があって生起し、原因がなくては何ものも生じないという法則。因果性の法則化された形式」。

 「いいことも悪いことも、すべては自分の業(行為)の結果である」ということ、つまり、「善因善果 悪因悪果」、「自業自得」ということです。

 ですので、「(他人のせいにするのではなく)自分の人生を引き受けることが、自由を生むことになる」と言われます。

自業自得 self-act and self- receiving [ getting ]

善因善果 a good cause and a good result

悪因悪果 an evil cause and an evil result

始める時は、今  ( It Is Now or Never )

  更にいずれの時をか待たん 典坐教訓

 「他は是れ吾れにあらず(他のことは私の仕事じゃないよ)」

と老転座に言われた道元ですが、なおもこんな質問をしています。

 「こんなに日差しが強いのに、なぜそんなご苦労をなさろうとするのです」

 それに対して、老転座が答えたのがこの言葉です。

 いまをおいて、他にいつ、私はこの仕事をやることがあるのかね。そんな意味になります。

 ひとりの老後を過ごしていると、つい「時間はたくさんあるのだから何もいますぐやる必要はない」と考えてしまいがちです。しかし「後で、後で」と先送りばかりしていると、結局はやらないままに終わってしまうことも多いものです。

 いまという時間は、いまのためにあります。

 歳を取ったいまだからこそ、できることがあります。幸せも、喜びもすべてはいまからはじまるのです。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 上記の「典坐(てんざ)」は『広辞苑』によりますと、「禅寺で、食事などの事をつかさどる役僧」のことです。

 今回のタイトル「始める時は、今」から思い浮かぶ短歌があるのですが、それは「世の中は今よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつ明日は知られず」という歌です。言うまでもありませんが、既に過ぎてしまった昨日には戻れないし、一寸先は闇の世ですから、明日がある保証はないからです。これがこの世の厳しい現実であり、老若男女を問わず誰にも当てはまることです。

 ですので、始める時は「今」しかありません。「今」を大事にしたいですね。

 世の中は今よりほかはなかりけり、昨日は過ぎつ明日はしられず。 (The world

has nothing except now, yesterday has already passed and there is no knowing what

will happen tomorrow. )

荷物は片手に持てるだけ

     知足(ちそく) 仏遺教経

 人生が旅であるならば、荷物はできるだけ少ないほうが、人生を楽しむことができます。

 その荷物のなかでも、ついたくさん抱えてしまいがちなのが欲望です。

 「もっとたくさん手に入れたい」

 「手に入れたものを放したくない」

  思えば思うほど、抱える荷物は大きくなっていきます。しまいには荷物に押しつぶされそうになりながら、よろよろと旅を続けている。それがいまの私たちではないでしょうか。

 「たくほどは風がもてくる落ち葉かな」

 煮炊きをするためだったら、風に散った落ち葉でことたりる。良寛和尚が俳句に詠んでいるように、人生に必要なものは少ないほうがいいのです。

 これからの人生は、楽しむための旅です。多くを求めず、いまあるもので満足する。仏教の説く知足の考え方が大切です。

      【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 「知足」とは、「現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと」『広辞苑』です。荷物の中でも「欲望」という荷物が一番多い、と言われます。多くを求めず(欲を起こさず)、今あるもので満足することが大切だと諭されます。

荷物は片手に持てるだけ ( Have baggage you can only do with one hand. )

断捨離

 前回、一遍の残した言葉、「一切を“捨離”すべし」を取り上げました。ここでの「捨離」と同義の「断捨離」という言葉が現在よく使われています。

 この「断捨離」に関して、少し気掛かりなことがあるのですが、そのことについて書かれていることを、フリー百科事典『ウイキペディア』より引きます。「新型コロナウイルス感染症の流行(2019年-)で食糧品や日用品などの入手性が悪化したことにより、備蓄を持たない生活のデメリットが浮き彫りになった。ミニマリストの中には、考えを改める例が見られ、今後は備蓄に取り組む「プレッパ-」が増加すると予想されている」というのです。因みに、プレッパー ( prepper ) とは、「備蓄に取り組む人」のことです。

 コロナ禍の最中、備蓄も必要かな、と思われますが、あくまで執着しない範囲で行いたいですね。

断捨離 (“getting rid of the clutter in your life and living with the bare minimum of things.”)

捨てると自由がやって来る

    一切を捨離(しゃり)すべし一遍

 「成し遂げたい」「手に入れたい」

 そうした思いが人生を前に進めてきたことを否定はしません。ただ、手にしたものは本当に必要だったのでしょうか。欲望に踊らされて、必要ではないものまで、手に入れようとしていないでしょうか。

 古代ローマでは、宴会でたらふく食べた後、もっと食べるために、胃のなかにあるものを吐き出して、また鯨飲馬食(けいいんばしょく)をしていたといいます。

 私たちは何も所有することがなく、裸で生まれてきました。本来無一物である存在が人間です。お金にしても、権力や名誉にしても巡り合わせで手にすることがあるだけで、必ずしも自分のものではありません。

 にもかかわらず、そこにしがみついてしまうことに苦しみが生まれます。「もっと、もっと!」と手に入れ続けて、動けなくなるのが私たちではないでしょうか。自由に動くためには、まず捨てることです。

 一切を捨離して、世の中を眺める。そこにあるがままの世が映るのです。

    【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]  】

 

 文中に「鯨飲馬食」とあります。その意味はこのようです。「いちどに度はずれて飲み食いすることのたとえ。鯨が飲むように大酒を飲み、馬が食べるように大食する、の意から」(『故事ことわざ辞典』より)。

 私たちの、物事に対する執着が如何に強いかを表しています。結果、「しがみついてしまうことに苦しみが生まれます」。

 苦しまないためには、真逆の執着心を捨てることだといわれます。捨離することで苦しみから解放され、自由になれるからだと。

 捨てると自由がやってくる ( Get rid of unnecessary things and you get freedom in

your life. )。

勝ち負けにとらわれない

 勝つ者は恨みを受く

 負(ま)くる者は夜も眠られず

 勝つと負くるを離るる者は

 寝ても覚めても安らかなり (『法句経』)

 上記は『イヤな思いがスーッと消えるブッダのひと言』(高田明和)に紹介されている言葉です。

 「勝つ者は恨みを受く」とは、勝った者は相手のねたみから恨まれることになり、「負くる者は夜も眠られず」とは、負けた者は悔しくて夜も眠られなくなる、ということです。

 生きていく上で、勝敗はつきものですが、その「勝敗にとらわれない」ことで、いつも穏やかでいられると教えられています。

 「寝ても覚めても安らかなり」、心に響く一言です。

勝っても負けてもとらわれない ( Don’t be prepossessed by win and loss. )

怨むから苦しくなる (You Suffer because You Have a Grudge against a Person)

   怨(おん)を以て怨に報(むく)いれば怨止まず最澄

 人生とは理不尽の塊(かたまり)です。頑張ったからといってうまくいくとは限りませんし、突然大きな病気にかかってしまうことさえあります。心から信頼している人からひどい裏切りを受けることさえあります。

 そんなとき、「やられたらやり返せ」とばかりに怨みをぶつけても、何の解決にもなりません。大きなことはもちろん、たとえ小さなことであっても、憎しみの連鎖は重ねるべきではありません。

      (略)

 怨憎会苦(おんぞうえく)といって、仏教では憎んでいる人と会うことを人間の根源的な苦しみにあげています。つまり、怨まないということは、相手のためだけではなく、自分のためにも大切なことなのです。

     【 『老いを生きる 仏教の言葉100』 ひろ さちや[監修]    】

 

 仏教では「因果応報」と教えられます。「過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること」『広辞苑』。

 最澄の言葉は「怨めば怨み返される(憎めば憎み返される)」ということで、怨み(憎しみ)の連鎖は続いていきます。因果応報ですね。

 「怨憎会苦」という言葉が挙げられていますが、この根源的な苦しみから解放されるためには「怨まないこと」だと言われます。

 「怨まないということは……………………………自分のためにも大切なことです」という「最後の件(くだり)が身に染みます。( The last passage of the text sinks deep into

my heart. )」。