お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

When a Leaf Falls(葉っぱの散り際)

 晩秋の時期、ほんのこの前まで、街路樹や公園の樹木は一斉に紅葉し、鮮やかな彩を見せていました。しかし今は、散り交う葉っぱも多く、すっかり葉を散らしてしまった木々もたくさんあります。落ち葉をカサカサ踏みしめながら歩くとき、この季節の物寂しいたたずまいに、感傷的な気持ちにもなります。人の命が散り落ちる葉っぱに重なるからでしょうか。


 私たちの一般的な考え方では、枯れ落ちる葉っぱは、寒さのために残っていられないのだろうとか、強風にさらされる時は、無理やりちぎり落とされているように思います。ですから、葉っぱの命の終わりは、ひどく寂しげに映ります。 ところが、植物学者によれば、このような考え方は間違いだといわれるのです。「『ふしぎの植物学』田中修著」には、次のように書かれています。     

          
 「同じ植物種の落ち葉を集め、いくつかを並べれば、落ち葉についている柄の先端が、すべて同じ形をしていることに気づくだろう。つまり、落ち葉は、風でひきちぎられるように落ちるのではなく、柄の決まった場所で、決まった姿で枝から離れて落ちているのだ。これは落葉に先立って、葉っぱの柄に、切り離すための箇所(離層という)がつくられるためである。葉っぱが『自分から、積極的に、枯れ落ちる』という根拠は、枯れ落ちるための離層 を葉っぱが自分でつくることである。 (中略)                   
 葉っぱたちの散り際の準備は、からだにあった栄養を、芽や幹や根に送り出すことからはじまる。送り出す作業がすめば、離層という枯れ落ちる箇所つくりがはじまる。離層ができれば、いよいよ散るべき時が近づいてくる。秋風が吹けば、枯れ落ちるだろう。・・・葉っぱにとっては、植物体との別れの時である」ここで明らかなように、葉は自ら散る準備をし、自ら積極的に散り落ちているのです。実に用意周到な散り方に思われます。あの見事な紅葉から散り際までの一連の葉っぱの生きざまは、その生涯の有終の美を飾っているようにさえ見えます。            


 私たち人間の晩年、そして散り際(死に際)はどうでしょうか。果たして葉っぱのように、自ら納得して、積極的に準備をし、そして散ることができるでしょうか。この点では、葉っぱの方が一枚上手のような気がします。       
(How about our later years and our way of falling on the verge of dying? Could we ever
prepare for our own falling satisfactorily and positively like leaves and then fall? I feel
as if a leaf is a cut above us on this point.)