お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

A Discerning Eye(鑑識眼)

 100万円と値をつけた壺が実際は1万円だったり、1万円と値をつけた掛け軸が30万円だったりと、その落差が面白くて、お宝の「なんでも鑑定団」というテレビ番組をたまに見ることがあります。お宝には、骨董品や絵画、彫刻、書、古銭等、お宝と思われるいろいろの物が登場します。                                
 でも悲しいかな、私には、例えばピカソの絵のような価値は全くわかりません。またその他有名な画家が描いたといわれる絵画なども、本物か偽物かを見分けることもできません。そういう点、物の価値を見分ける鑑識眼を持った専門家はすばらしいと思います。    


 ところで、次元は違いますが、この鑑識眼に関して、人が人を鑑識することは不可能です。誰でも自分の色メガネを通してしか相手を見ることはできないし、また相手の心の中まで見ることはできないのですから、当然のことと言わなければなりません。        
 人間の本当の姿、価値は阿弥陀さまの鑑識眼を通してしか知ることはできません。その阿弥陀さまの眼を通して見られた人間の姿は、『教行信証』に書かれた「機の深信」に表されている通りです。阿弥陀さまは私の本当の姿を教えて下さる方です。真の鑑識眼の持ち主だといえるでしょう。                                
※機の深信( the deep faith of a being )
 「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなしと信ず」        
(One is to believe deeply and decidedly that you are a foolish being of karmic
evil caught in birth-and-death, ever sinking and ever wandering in
transmigration from innumerable kalpas in the past, with never a condition
that would lead to emancipation.) (「英訳親鸞聖人著作集」より)