お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

A Sense of Incongruity(違和感)

 山折哲雄宗教学者)さんが、朝日新聞be紙面の「生老病死」というご自身担当のコラムで書かれていることですが、4月14日付のテーマは「二つの散り際 私の中の違和感」でした。その中で、葉っぱのフレディという物語のあら筋がこのように書かれています。 
 「一枚の葉っぱが四季を通じて姿を変えていき、最後は土に落ちる。けれども翌春には、また若芽を出し、葉を茂らせる、そのための養分になる。そのように筋を追いながら、いのちが自分ひとりで終わるのではなく次の世代また次の世代へと受けつがれていく。われわれもまた同じような運命を生きていくのだ」                     


 この物語についての山折氏の感想は次のようです。                 
 「‘葉っぱのフレディ’の話をきくとき、私はいつも良寛の作と伝えられる有名な俳句を思い出していた。                                 
   裏を見せ表を見せて散る紅葉                         
である。人の最後は紅葉が散るときのように、オモテの明るい面をみせたりウラ側の寂しい暗い影をみせたりしながら、ひらりひらりと、ゆっくり落ちていく……。        
 良寛の紅葉は「散っていく」けれども、葉っぱのフレディは「いのちをつないでいく」。紅葉はおそらく、枯れはてて散り、最後は土に返る。だがフレディは土に落ちるけれども生命をつないでいく。両者の終わり方はたしかに似ているけれども、しかしどこか違っている。良寛の紅葉には死の意識がのせられているけれども、フレディの方はそれがどうも希薄である。あるいは死の影が消えている。その違いの感覚が私のからだのどこかに残っていたのである」                                     


 この葉っぱのフレディの話は、中学三年生の英語の教科書に出ていたのを読んだことがあるのですが、「死」に対するイメージが私の感じるそれと、どこか違うなとモヤモヤ感が残っていました。でも、山折氏は、良寛の紅葉とフレディ両者の終わり方の微妙な違いを、前者には「死の意識がのせられている」、後者には「死の影が消えている」と表現されていて、とても分かり易く、気持ちがスッキリしました。                 


 私のような真宗信者からすれば、フレディの死に対する意識には、どうしても違和感を覚えてしまうものです。( As for believers of Shin Buddhism like me, we will
necessarily feel a sense of incongruity to Freddie’s consciousness to death. )