お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

By Amida Buddha’s Great Compassion(阿弥陀仏のお慈悲によって)

 この前採ってきたワラビで気づいたのですが、帰宅してから、それを新聞紙の上に広げると、ワラビの中から3ミリ程度の小さな、小さなアリがたくさん出てきました。どうもアリは、ワラビの先の部分が好みのようで、そこに付いていたものだと思われます。新聞紙の上を動き回り、処置に困りました。あまりに小さく、手でつまむとつぶれてしまいそうでした。一瞬、「殺してしまってはかわいそう」と思い、急いで新聞紙ごと外に持って出て、コンクリートの上に広げ、アリたちが自分ではい出して行くようにしました。         


 そんな時、ふと『御一代記聞書』の中に書かれている次の話を思い出しました。「ある時、ある人が蜂を殺してしまって、思わず念仏を称えました。その時、蓮如上人が、『あなたは今どんな思いで念仏を称えたのか』と、お尋ねになったところ、その人は『かわいそうなことだと、ただそれだけを思って称えました』と答えました。すると上人は、『信心をいただいた上は、どのようであっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味であると思いなさい。信心をいただいた上での念仏は、すべて仏恩報謝になるのである』と仰せになりなした」(『御一代記聞書』)一八〇)というものです。                  
 以前は、上記文中のある人が、「ただ、かわいそうだ」と思って称えた念仏が、どうして報謝の念仏になるのか、わからなかったのですが、今はこのように思っています。本来なら、虫を殺してしまっても、かわいそうだと思えない自分なのに、そういう気持ちがわいてきたということは、阿弥陀さまのお慈悲の働きによるのである、と気づかされている人だから、例え「ただ、かわいそうだ」と思って称えた念仏であっても、仏恩報謝の念仏になるのだ、と味わっています。            


 話は元に戻りますが、私も「アリを殺してしまってはかわいそう」と思ったのもやはり、阿弥陀さまのお働きによるからです。同じ命を生かされている生き物どうし、命の尊厳に上下はないと教えられているからです。         
(Let’s get back to the beginning. I was glad I could feel it pity for ants to kill them
thanks to the power of Amida Buddha’s great compassion. I am made to notice that
there is no difference in the dignity of life whether it is a man’s life or an ant’s life
because men and ants live the same one life given by the Buddha.)