The Nembutsu to Return One’s Gratitude to the Buddha(報恩の念仏)
阿弥陀如来は、迷いのなかにある私たちを哀れみ悲しまれ、そのままに救いとるとはたらかれている。浄土真宗の救いは、この如来のはたらきを信じる心一つで定まり、念仏は救われたよろこびが声となってあらわれ出たものである。
親鸞聖人は仰せになる。
ただよくつねに如来の号(みな)を称して
大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報ずべしといえり
如来は私たちを救いとって見返りを求めることがない。はかりしれない如来のご恩は、決して返すことのできない大いなる恵みである。私たちは、ただそのご恩をよろこび、感謝の思いを念仏の声にあらわすばかりである。これを報恩の念仏という。
救いのよろこびを恵まれた者は、報恩の思いから、つねに南無阿弥陀仏と念仏申すべきである。
【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】
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念仏は、ひとえに「報恩の思いから」するべきであると教えられています。
この「報恩の念仏」に関して、蓮如上人が言われたことが『御一代記聞書』にはこのように書かれています。「ある人が蜂を殺してしまって、思わず念仏を称えました。そのとき、聖人が、<あなたは今どんな思いで念仏を称えたのか>と、お尋ねになったところ、その人は、<かわいそうなことだと、ただそれだけを思って称えました>と答えました。すると上人は、<信心をいただいた上は、どのようであっても、念仏を称えるのは仏恩報謝の意味であると思いなさい。信心をいただいた上での念仏は、すべて仏恩報謝になるのである>と仰せになりました」。
私の場合、以前は、日々の生活の中で起こる色々なことに「何とぞお守りください」とか、「どうか無事に済みますようにお願いします」などと、阿弥陀さまにお願いする気持ちで「南無阿弥陀仏」と念仏を申していたことが多々ありました。でも、蓮如上人の言われていることを知ってからは、ただ「ありがとうございます」と報恩の思いから念仏を申してきました。今回の上記を拝読して、念仏の意味を一層重く感じています。
今、思いますに、阿弥陀さまは私の心をお見通しなのですから、何もお願いしなくても、ただ「南無阿弥陀仏(ありがとうございます)」と申す中に、私の気持ちは分かってくださっていたのです。
Solely saying the Tathagata’s Name constantly, one should respond with gratitude
to the universal Vow of great compassion
(ただよくつねに如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべしといえり)