The Nembutsu of Other Power(他力の念仏)
親鸞聖人の師である法然上人は、七万遍あるいは八万遍のお念仏を日課としておられたと伝えられています。もし「南無阿弥陀、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と一分間に八十回ほどのお念仏をしたとして、七万遍ですと約十四時間半、八万遍ですと、約十六時間半かかります。起きている間は、食事をしている間や、他人と会話をしている間を除いて、ほとんどお念仏のし続けということになります。そして、法然上人は自らのお念仏を、他力の念仏とおっしゃっておられます。これは、決して怠け者の態度ではありません。我が口から出る南無阿弥陀仏でありながら、それは如来さまがはたらいていてくださるお姿とうけとめられたのが法然上人です。
【 『やわらかな眼』内藤智康 本願寺出版社 】
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法然上人が、一日七万遍あるいは八万遍の念仏を日課としておられたということは聞いたことがあります。しかし、具体的に時間で示されますと、一日約14時間半から16時間半にも及ぶとは、本当に驚いてしまいます。
この念仏に関しましては、蓮如上人は御文章の中でいたるところに「仏恩報謝のためには、つねに称名念仏申しなさい」とおっしゃっています。念仏が極めて大切であることが知らされます。
でも、ここで大事なことは、念仏は自分の力で称えているように思いますが、自力では決して称えることができないと教えられていることです( However, the
important matter is that we can never say the nembutsu by our self-power, though we may think we say it by ourselves.)。 妙好人の浅原才市さんは「名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ」と詠みました。阿弥陀さまの発せられる念仏が、私に当たってこだましたものだというのです。
また、内藤師は法然上人もそのように受け止められているとおっしゃっています。私たちの口から出る念仏は、すべて他力の念仏であるということです。何と尊いことでしょうか。